主の救いのさなかに生きる
ルカによる福音書 4: 21 – 30
私たちは、先週の礼拝で、イエス様が故郷ナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読まれ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されたことを聞きました。本日の福音書は、その続きの出来事が記された箇所で、イエス様の言葉を聞いたナザレの人々がイエス様を褒めたことと、その直後にイエス様を町から追い出し崖の上から突き落とそうとした出来事が記されています。
イエス様が読まれたイザヤ書 61 章には、貧しい人々に良い知らせを伝え、捕らわれている人に自由を、つながれている人に解放をもたらす救い主が神様から遣わされることが書かれていました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というのですから、人々はイエス様の言葉を聞いて、自分たちが抱えている目の前の問題、例えば貧しさや病、外国による圧制などから解放される時が来たと考えたことでしょう。
「この人は、ヨセフの子ではないか。」という人々の言葉は、否定的な反応とも好意的な反応とも取ることができますが、前後の文脈を考えると、目の前で救いのメッセージを語る預言者が自分たちと同郷の人間であり、面識があることへの喜びの言葉と理解するのが自然であるように思われます。「同郷のよしみ」という言葉がありますが、ナザレの会堂に集まっていた人々は、イエス様が語られる恵み深い言葉を聞きながら、身内である自分たちには特別な恩恵があって然るべきと期待し始めたのではないでしょうか。医者が自分を真っ先に治すのと同じように、自分たちは優先的に救いに与る特権があるという考えです。
神様の救いは特定の人々のためのものではありません。神様の愛はすべての人に向けられています。救いは神様の大きな愛の計画によって与えられるものであって、何かの条件を満たしている人が優遇されたり、人間側の理由でその対象から外されたりするものではありません。
そのことを示すために、イエス様は旧約聖書の偉大な預言者であるエリヤとエリシャが異邦人のもとに遣わされた話をされました。サレプタのやもめもシリア人ナアマンもどちらも異邦人です。当時イスラエルに助けを必要としている人がたくさんいたにも関わらず、神様の御心が行われたのはイスラエルの外であったと語るイエス様の言葉を、ナザレの人々は受け入れることができませんでした。自分たちが当然受け取れるはずの救いをよそ者に与え、自分たちを蔑ろにしていると考えて、人々は憤慨しました。
イエス様は、ナザレの人々に救いがもたらされることがないとおっしゃっているわけではありません。イザヤが伝える自由と解放は、その言葉を耳にするすべての人の元で実現するのです。
ナザレの人々も含め、すべての人類が神様の救いの対象です。そこに条件はありません。
ナザレの人々の理解のなさを指摘することは簡単です。しかし、私たちも同じように自分たちの物差しで神様の救いを理解しようとしていることはないでしょうか?無意識のうちに、神様の救いに条件を付け、救いの範囲を狭めてしまうことはないでしょうか?礼拝に出席した回数も、献金の額も、洗礼を受けているかどうかも、教会での奉仕の内容も、社会や組織への貢献度も、それ自体がどんなに素晴らしいことであっても、神様の救いの条件ではありません。神様の計画や意志を離れて、人間が神様の愛をコントロールできるものではないということを、私たちは意識しなければなりません。人間の側に救いの根拠がないことに改めて目を向けたいと思うのです。
ここで福音書の日課の冒頭に戻り、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」という言葉に着目したいと思います。「実現した」という動詞は、聖書の原文のギリシャ語では現在完了形が使われているそうです。日本語には、現在完了という時制がありませんので、過去形との違いが分かりにくいのですが、過去形が過去に一度だけ起こり終了してしまった出来事を表すのに対し、現在完了形は、過去の行為や出来事、またその結果の状態が現在も続いていることを表す表現だそうです。つまり、イエス様が朗読されたイザヤ書の御言葉は、イエス様が語られ、ナザレの会堂にいた人々がそれを耳にしたという出来事によって現実のものとなり、今もその状態にあるということです。
御言葉が実現したという事実は、ナザレの人々がイエス様に好意的な態度を示していた時も、イエス様の言葉に憤慨し、イエス様を殺そうとした後も変わりません。聖書の言葉は、過去のあるタイミングで一瞬実現し、その後その効果を失ってしまうようなものではなく、現在もその先も実現した状態であり続けるのです。神様の救いは、継続する時間軸の中で実現されるプロセスであると言ってもよいでしょう。イエス様が来られたことによって、捕らわれている人が解放され、目の見えない人が見えるようになり、圧迫されている人が自由になるという聖書の言葉は、確かな現実の出来事となりました。そして、今日、イエス様の言葉を耳にしている私たちもまた、神様による救いの時間の中に生きているのです。
本日の福音書箇所は「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」という言葉で締めくくられています。「立ち去られた」という表現からは、イエス様がご自分に敵対したナザレの人々を見捨てられたような印象を受けるかもしれません。しかし、英語の聖書では、「立ち去られた」という部分に「ご自分の道を進んで行かれた」という意味の言葉が使われています。イエス様が、ナザレを後にされたのは、人々の無理解や迫害によって働きを止められることなく、救い主としての道を全うされるためでした。イエス様はナザレの人々から逃げたのでも、ナザレの人々を見捨てたのではなく、救いを実現するためにご自身に与えられた道を歩まれたのです。
神様は、ナザレの人々の苦しみや痛みを承知しておられます。自分の都合のいいようにイエス様の言葉を聞き、イエス様を受け入れることができなかったからと言って、誰一人として神様の救いから漏れることはないのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエス様の言葉に偽りはありません。イエス様を殺そうとしたナザレの人々のためにも、イエス様はご自身の道を進んで行かれました。そして、その道は十字架につながる道です。
パウロは、コリントの信徒への手紙一13章12節で「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知らせているようにはっきり知ることになる。」と言っています。
私たちは、神様の計画を完全に理解することはできません。私たちの目から見れば、なぜこのようなことが起こるのだろうと思うようなことがあります。必死の祈りが聞き届けられなかったように感じることもあります。しかし、私たちにはわからなくとも、私たちがこの世に生を受ける前から、私たちのことを知っていてくださる神様が、救いの道を備えていてくださることを信じたいと思うのです。イエス様の言葉に耳を傾けることで、神様の救いの働きの一部とされていきたいと思うのです。