受け継がれる福音
ヨハネによる福音書 8: 31 – 36
今日の福音書の日課ではありませんが、ヨハネによる福音書5章17節にイエス様のことばとしてこうあります。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのである。」実はこの聖句は私が44年前神学校に入る時の志願書に書いた聖句です。四年後の按手式の時、当時の神学校長だった清重尚弘先生がこの言葉を紹介され、「松岡先生はこれから普通よりちょっとだけ良い牧師になる」と微妙な紹介と預言をされました。この預言があたっていたかは皆さんの判断におまかせします。
なぜ今日こんな話をしたかというと、私たちは今日、大岡山教会の宣教90周年の感謝とお祝いの時をもっています。そして1900年にフィンランドから、未知の地であるアジアの日本に来日され、1934年に大岡山の地で宣教を開始されました。言葉はもちろんほとんど何も情報がない中で、献身して日本に宣教師として来られた若い先生方がどのような気持ちで来られたか思いめぐらしたからです。今でも按手を受けた牧師は初任地に赴任するとき、それなりの不安と緊張感を持っていると思います。しかし、それでも言葉には問題がありませんし、いろいろな情報はネットで調べることができ、有る程度の準備ができます。しかしフィンランドの最初の宣教師は若い家族と 17 歳の少女でした。当時のフィンランドはロシア領でした。ですからロシアのパスポートで来日したのです。当時は日露戦争の時代です。ロシアは日本にとって敵国です。そんなパスポートを持った宣教師たちが、言葉もわからないままどんな扱いを受けたでしょうか。また一般の人たちからも敵国人として差別され拒絶されたのではなったのではないでしょうか。個人的なことですが、私は22歳の時にルーテル世界連盟のプログラムで単身ブラジルに一年間の研修に参加しました。英会話もろくにできない、公用語であったブラジルのポルトガル語はまったくわからない、今から考えるとよく行ったなあ思いますが、矢張り大変苦労をしました。鬱的になり部屋にこもったこともありました。そのような経験を考えると、フィンランドからの宣教師はもっと厳しかったと思います。
さて私たちの人生には限りがあります。長い人でも90年から100年、私たちにとってそれは人生のすべてですが、神様の歴史から考えると、それは一瞬でしかありません。しかしだからと言ってその一瞬は決してむだな一瞬ではありません。なぜならばそこには神様のご計画と恵みがふんだんに込められているからです。そしてその一瞬一瞬が繋がりながら影響しながら受け継がれ神の歴史が形成されているからです。
教会もそうです。礼拝とそこで語られる説教と福音、聖餐式の霊の糧でイエス様のご臨在を確認し、祈りと賛美、信仰の交わりで繋がり、受け継がれながら教会の歴史となり、神様の創造の歴史が実現しているからです。そこにはみことばが中心にあります。み言葉を中心に礼拝が形成され,信仰が受け継がれているからです。それだけでも私たちにとっては十分です。なぜなら私たちの人生が神様の歴史の一部であって、私たちは福音の器として用いられているからです。私たちの信仰生活には紆余曲折があります。熱心な時もあれば,冷める時もあります。日常の仕事や生活に追われて、教会をわすれ、神様を見失う時もあります。自分の命が無意味に感じたり、自暴自棄になり死んでしまってもよいと思うような時もあります。確かに赤ちゃんをなくし、神様の残酷さを感じ意図が感じられなくなる時もあります。しかしそんな時には神様はご両親や残された人々に愛が集められます。そこに神様の意図があります。苦しいこと,悲しいこと、残酷なことがあります。私たちにとって納得できないこと、受け入れられないことがあります。それが私たちの正直な姿です。しかしそこには神様が必ずおられます。神様は私たちの命、人生、信仰を決して無駄にされないのです。私たちの命と人生は神様に用いられるのです。
私たちが大事にしているみことばは、私たちの心にとどまらない時もあります。聞き流し素通りしてしまうこともあります。しかし福音は私たちの気が付かないところで、心に根差しており、必要な時に何よりも大きく働き支えとなるのです。
私たちの教会の歴史に戻りましょう。わたしたちの教会もフィンランドの信徒の皆さんの信仰と情熱によって生まれました。それを受け止め引き継ぎ多くの信徒の皆さんの祈りと支え、努力によって乗りこえ成長してきました。苦しい時代もありました。戦争中はもちろんのこと、最近ではコロナ禍によって再び厳しい時代に入っています。生き証人であった高齢の方々が多く天に召されました。しかし大岡山教会は大岡山幼稚園と共に時代が変わっても頑固にキリスト教保育を熱心に取り組み障碍のある子どもたちをいち早く受け入れてイエス様が子どもたちを愛されたように、子どもたちを愛し育ててきました。
日本福音ルーテル教会全体を見れば、牧師不足で先行きが見えません。しかし大岡山教会はこれまでもそうであったように、信徒の力を用いることによってこれからもそれを乗り切る力を持っているのです。今日は宗教改革主日ですが、わたしたちはルーテル教会の神学を忠実に守りその伝統を大事にし、信徒が惜しみない努力を発揮しているからです。
私たちの大岡山教会はこれからも続いていきます。福音の担い手としてその使命を果たし続けます。一人一人の力には限界があり時間的にも限りがありますが、しかし教会という共同体は、力を合わせながら務めを果たしていきます。そこには希望があり召しがあり、使命に用いられる喜びがあるのです。その喜びを感じながらこの90周年をお祝いしたいし歩み続けたいと思います。神様の祝福が大岡山教会に豊かにありますように祈ります。