2024年5月19日 説教 松岡俊一郎牧師

聖霊に包まれ、促されて

使徒言行録 2: 1 – 21, ローマの信徒への手紙 8: 22 – 27, ヨハネによる福音書 15: 26 – 26, 16: 4b – 15

イエス様の弟子たちの多くは辺境の地と呼ばれたガリラヤ出身であり、12人のうち少なくとも四人は漁師でした。つまり田舎の無学な青年たちでした。ユダヤ人の若者の多くが幼少のころからユダヤ教に触れていたとしても、律法学者やファリサイ派の人々からは相手にされない人々でした。イエス様に弟子として召し出され、三年間寝食を共にし、毎日イエス様の話を聞き、奇跡を目の当たりにしても、彼ら自身が宗教的に優れていたわけではありませんでした。彼らは多くの民衆と同じように、イエス様が世の中を変えてくれる、自分たちの暮らしをよくしてくれるというような期待を持っていたのです。そんな彼らが、後にイエス様の福音を伝えるようになるのは、彼ら自身の力によるものではないことは明らかでした。

イエス様は十字架にかかり弟子たちの前から姿を消されます。しかし三日目に復活され再び弟子たちの前に現れます。そして昇天によって、再びイエス様と会うことが出来なくなりました。復活と昇天のイエス様を目の当たりにして喜んだ弟子たちでしたが、依然として人前に出ることはできなかったと思います。しかし、そこに聖霊が与えられたのです。イエス様が「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と言われたように、彼らは恐れることなくそして雄弁にイエス様を証し始めるのです。しかしそれは、弟子達の力によるのではありません。真理の霊が証をすると言われるように聖霊が彼らに働くのです。

さて、創世記の冒頭に天地創造物語が記されています。その中で人間は土の塵でその姿が形作られ、そこに神様の息が吹き入れられたとあります。
旧約聖書の日課のエゼキエル書の37章の預言には、エゼキエルがカラカラに枯れたおびただしい骨を見ています。捕囚の時代に生きたエゼキエルの時代の埋葬の仕方がどうであったかは分かりませんが、絶えず戦いが繰り返され、病に対する効果的な医療もなかった時代のことです。彼らが人の死と出会い、死体を見ることは日常のことであったと想像します。それでも位の高い人はそれなりの埋葬場所が用意されたでしょうし、親しい家族に対しては丁寧な埋葬がされたでしょう。しかし、そうでない場合は、放置され、あるいは一か所に集められて、獣や鳥のついばみに委ね、自然の腐敗に任せたでしょう。エゼキエルが連れて行かれた場所は、そのような場所でした。そこにはいくつもの枯れた骨が無造作にほおってあったのです。力を感じさせた、命を感じさせた肉体がもろい骨になる。それを見る時、人間はいかに空しい存在であるかを痛感させられます。しかしその骨に預言し神の言葉が語られると、骨同士が合わさり関節を作り、筋と肉と皮が生まれました。人の姿ができます。しかしそのままでは生きた体とはなりません。そこに神様の霊が吹きいれられます。そしてそれらは生きた者、大勢の群衆となります。
創世記の人間の創造、エゼキエル書の枯れた骨の預言、旧約聖書の人間理解では、人は神様の息、聖霊によって初めて生きたものになると考えています。

今日の聖霊降臨祭の日、弟子達の上に聖霊が降ります。弟子たちもまた、死んだ者のようになっていました。愛し、信頼していた教師であったイエス様を失い、それも弟子達は十字架の前で何もすることができず、むしろ裏切って散り散りに逃げまどい隠れていました。そんな自分たちに彼らは絶望していました。私はイエス様を失った悲しみよりも、そんな不甲斐ない、裏切り者でしかない自分に絶望することのほうが、彼らを苦しめるものはなかったのではないかと思います。もはや生きる望みも意味も見いだせずにいたのではないでしょうか。たしかに彼らは復活の主に会いました。天に上げられた姿も見ました。しかし、自分自身を振り返った時には、生きる価値をどれだけ見いだせたでしょうか。自分に対する失望によって彼らもまた死んだ者のようになっていたのです。そんな彼らの上に、聖霊が炎のような舌の形を取って、分かれ分かれになり、一人一人の上にとどまったのです。そうするとどうでしょう、弟子達は聖霊に満たされ、それまで人前に出るのも恐れていた彼らが、人前に出るだけでなく、いろいろな言葉で話しだしたのです。明らかにそこには大きな変化、彼らにとっての大転換が起こったのです。

私は今日の聖霊降臨の記述の中で、「聖霊が一人一人の上にとどまった」ことに注目したいと思うのです。聖霊はまとめてではなく、一人一人の上にとどまったのです。そしてそれは、神様の力がその人に必要なものをふさわしい形で与えられたということです。

私たちの社会は、特別な人だけが「ひとり」として扱われ、そのほかの人々は、国民、都民、区民、あるいは庶民、一般民衆としてしか扱われない社会です。あたかも一部の人々のためだけに国があり、ほとんどの人々が、目をとめられることなく数字としてしか扱われず、なかにはその数字の中にさえ含まれない人々がいるのです。
それは社会だけでなく私たち自身でもそうしています。一人一人個性を持ちながらそれを生かすことをせず、むしろ押し殺し、出来るだけ目立たないように、人と同じように生きようとしています。「出る釘は打たれる」ということわざのように、目立つと場合によってはいじめの対象になりかねません。これはこどもの世界だけでなく大人の世界でも同じです。批判の的になり、抑え込まれたりしてしまいます。しかし、神様は一人一人をその人「ひとり」として見てくださいます。イエス様ご自身も、ご自分を取り囲む大勢の中で、服の裾に触れた一人の女性を必死で探そうとされました。沿道に群がる大勢の民衆の中で木の上に登っていたザアカイに目を留め、彼の家を訪ねられます。弟子達の中でただ一人復活の主に出会うことができず、復活を信じなかったトマスのためだけのために、その姿を現してくださったのです。このように神様は「ひとり」をとても大事にしてくださるのです。

聖霊降臨による弟子達の大きな変化、大転換は命の主体の変化です。私の命が私の命だけにとどまる時には、その私が絶望的になった時には、もはや生きる力はありません。しかし、私の命がわたしの命であると同時に、その私の命を通して神様同時に、その私の命を通して神様がみ業を起こそうとされるのを知った時には、そこには新しい命の営みがあるのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言っています。弟子達が大きな変化を遂げたのは、その命の源である聖霊を受けたからです。もはや彼らは自分たちの身を守るということには目もくれず、与えられた福音を伝えることだけに生きるのです。

この聖霊は私たちにも与えられています。パウロがダマスコ途上で復活の主とであったような、マルティン・ルターの宗教改革の福音理解に至ったいわゆる「塔の体験」のような聖霊との劇的な出会いもあれば、そうでない出会いもあります。聖霊は聖書では息とか風と訳される言葉で、イエス様ご自身もニコデモとの対話で霊は「風」という表現を使われています。風は強く吹いたり弱く吹いたりします。強く吹いたときには、私たちはそれをすぐに感じることができますが、弱く吹いているときには気にとめることもありません。木の葉の揺れ具合を見て、ああ風が吹いているなと感じたり、あえて意識するならば肌に感じることができます。聖霊はいつも私たちに働いています。それはいつも同じではありません。また受ける私たちも同じではないのです。しかし多様な仕方で降り注ぎ、働く聖霊は、確かに私たちひとりひとりに与えられ、私たち一人一人をふさわしい仕方でキリストに生きる大きな変化へと導くのです。