2024年4月28日 説教 宮川幸祐氏 (信徒)

曲がりくねった枝だけど

使徒言行録 8: 26 – 40、ヨハネの手紙一 4: 7 – 21、ヨハネによる福音書 15: 1 – 8

私は2013年から約6年間、九州の久留米、大牟田、田主丸の三教会で牧師をつとめていました。しかし様々な状況の中で限界を迎え、その働きを辞することとなりました。ただ、今日はそういう「元牧師」という立場ではなく、大岡山教会の信徒の一人として、この説教壇に立っています。大岡山教会は信徒の働きが力強い教会であり、信徒が説教を行うことも普通に行われています。しかし多くの教会では説教は牧師や元牧師だけがつとめており、時に信徒説教者が担うことがあっても「牧師がいないから仕方なく」です。しかし私は礼拝の場において「牧師とそれ以外」という強い線引きを用いることは相応しく無いと思っています。「福音を伝えるのは牧師の役目」という誤った認識を抱かせるからです。福音を告げ知らせるのは、神様の愛と出会ったわたしたちひとりひとりに与えられた役目です。そして本日の福音書は、そのような私達のあり方を指し示しています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 とても有名な聖句です。私達がキリストと繋がっているから、主が私達を愛し共にいてくださるから、私達は実りを得る。ここで言われている私達が結ぶ「実」とは、一言で言うならば「愛」です。本日の第二の日課ではこのように言われています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」この第二の日課の御言葉は、福音書の日課と重なり合います。私達は主とつながっているから実を結ぶ。主が私達のところに来てくださったのだから、その愛によって私達も互いに愛し合うことが出来る。「愛」、それこそが私達の結ぶ「実」です。更に言えばその「愛」は、家族愛、友人愛といった般的な愛ではなく「神の愛」です。聖書は「私達という枝に、神の愛が実る」という驚くべき出来事を告げているのです。いや神の愛は神から出るもので私達から出るものではないと思われるかもしれません。しかし、ぶどうの木に、その枝に実る実は、ぶどうです。そして、木が主なのですから、そこに宿る実は「主の愛」なのです。

とはいえ疑問が浮かぶのも分かります。「私達が、神の愛を結ぶことなど出来るのだろうか」。人間が、神の愛を行うことなど出来るわけがない。百歩譲って、物凄く立派な人なら出来るかもしれない。でも、普通の自分にはそんなこと出来るはずがない。そんなひっかかりはちょうど、「福音を述べ伝えよ」と言われた時の正直な躊躇いとも重なり合います。「立派な人がするなら分かる、優れた者がするなら分かる。でも、自分では力不足なのではないか」つい心の中からそんな声が出てきたりもします。けれどそんな私達に向けてキリストは語りかけます。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 「実を結ぶ」であって「実を結びなさい」ではありません。実を結ばせるのは枝の働きではなく木の働きです。そして私達は木と、キリストと、つながっています。だから私達は、神の愛を結ぶ、そしてその愛によって互いに愛することが出来るようになると言われているのです。

むしろ、自分が完璧ではない、罪深いと知ることは大切な事です。欠点だらけの私達をしかし神様は愛してくださった、それこそが福音の根本にあるからです。私達は力不足だけれど、それでも神様はそんな私達のことを大事に思ってくださっている。この関係に目を向けることこそ、福音と出会う第一歩です。自分が弱いことは、決して神の愛を妨げないのです。

思えば、ぶどうの枝だってそうです。ぶどうの木の枝は、力強く立派で、堂々たる姿ではありません。ぶどうは蔓性の植物で、その枝は曲がりくねって、節があって、支えがなければ垂れ下がってしまうような弱々しい枝です。しかしそんな曲がりくねった枝が、豊かに実を結ぶのです。それは私達自身の姿です。理想通りではなく儘ならぬことだらけ、けれどその弱々しい私達に実りが与えられます。私達もまた曲がりくねった枝なれど、そこに神の愛が実るのです。そしてこの愛によって、「福音」は伝わってゆくのです。

第一の日課では、十二弟子の一人フィリポがエチオピアの宦官に福音を伝えた場面が示されていました。弟子たちもまた、自分自身が弱い者、過ちを犯す者であることを知っていました。それを思い知らされたのが十字架の出来事です。恐ろしくなって逃げ出してしまった、主を裏切って役目を投げ出してしまった。けれどそんな弟子たちのもとに復活の主があらわれます。弱い者、罪深い者を、しかし神様は見捨てない、主がともにいてくださる。それはまさしくフィリポ自身が経験したことです。弱々しい枝にしかし神の愛が与えられたのです。そして、その「愛」を、その経験を、フィリポはエチオピアの宦官に伝えます。自分が経験した神の愛があなたにも働くのだと、その宦官に告げ知らせた。すると、彼は言うのです。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 フィリポの弱さの内に神の愛が実り、さらにそれが宦官にも確かに伝わったのです。

私達の働きも同じです。私達は、自分の強さ、立派さ、正しさで、福音を伝えるのではありません。弱く儘ならない私達に、しかし神の愛が注がれていることを、私達は我が身をもって示してゆくのです。私に働いた神の愛が、あなたにも働くのだと告げ知らせてゆく。そして、だからこそ、その働きは私達ひとりひとりに託されたものです。立派な者、特別な者だけが行うわざではありません。神様の愛と出会い、神様の愛のうちに生きるひとりひとりが、神様の愛を伝えるものとなる。曲がりくねった枝なれど、神が実を結ばせてくださる。その実によって、福音は、ますます広がってゆくのです。

思えば、私達の人生は儘ならぬことも多いです。願ったことと、全然違う自分の姿を見出したりもします。しかしそれでも確かなことは、そんな私達と主がともにいてくださるということです。主は、ありのままの私達を愛してくださっています。共にいて、豊かに恵みを与えてくださるのです。だからこそ私達は、自分自身の弱さ小ささに怯まなくて良いのです。私達は、豊かに実を結ぶ。主の弟子となり、福音を告げ知らせる者となる。神の愛のうちに生き、神の愛を伝えるものとなる。そのような驚くべき恵みに、主は私達を招き入れてくださっているのです。