2024年2月18日 説教 河田礼生神学生

荒れ野の主

マルコによる福音書 1: 9 – 15

先週の水曜日から教会は四旬節を迎えました。
本日の福音書はイエス様は荒れ野で40日間を過ごしたことを記しています。荒れ野とは過酷な環境です。おおよそ人の生きていけない場所を意味します。また、わたしたちの心を神様から離してしまう場所でもあります。なぜならそこでは神様の祝福と恵みを感じることが困難だからです。また神様に対してだけではなくて、お互いにも苦しめあってしまうことも起こります。私たちは極限の飢えに直面した時に一切れのパンを分け合うことができるだろうか、そんな恐れや不安を考えずにはいられません。イエス様に現れたサタンとはそのような思いを用いて誘惑に陥らせてくる力です。マタイやルカの並行箇所には、具体的なサタンの誘惑との戦いが記されています。「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」というサタンの試みに、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」と神の言葉によって立ち向かう有名な箇所ですが、同じ状況でわたしたちが神様に委ねられるかと問われるなら、そうとは言えない自分に気づかされるのです。

そんな荒れ野での40日間にわたしたちは思いを巡らせます。そうは言いましても、わたしたちは自ら望まない限り、実際に荒れ野での生活を経験しません。ではわたしたちの思い巡らす荒れ野とは何でしょうか。それはわたしたちの生きる世界のことでしょう。わたしたちそれぞれが生きている世界には、私たちを苦しめるものがあふれております。心が満たされず愛に飢えていると感じることもしばしばです。戦争や災害や事故なども絶えません。「神様、どうして」と叫びたくなるようなことがたくさんあるのです。荒れ野のような世界で生きていくことは苦しいです。そこでは簡単にサタンの誘惑にも負けてしまい、神様から離れてしまう危険を常に伴っています。

ただしかし、わたしたちはイエス様のみ業によって、荒れ野という場所のもう一つの意味と向き合うことができます。それは神様とわたしたちとが出会う場所としての荒れ野です。イエス様は荒れ野に来られました。特にマルコによる福音書は、荒れ野に働きかける神様を力強く記しております。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼んだ父が霊を送り、その霊がイエス様を荒れ野に送り出すのです。父と子と聖霊が荒れ野に働きかけているのです。わたしたちの生きる荒れ野のような世界に働きかけているのです。神様の働きかけが届くところは神様に結ばれているところですから、そこが神様の愛が支配する神の国であるのです。まさに「時は満ち、神の国は近づいた」のです。

イエス様は荒れ野に神の国をもたらしてくださいました。この世界もわたしたちを苦しめる荒れ野であるけれども、同時にイエス様が来られ、働かれている神の国であるのです。もしわたしたちが苦しみや自分勝手な思いに目がいくならば荒れ野に見えるけれども、その中にイエス様と出会う時には神様の愛が支配する神の国が見出されるのです。
そして、イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と語ります。わたしたちは放っておくとすぐに荒れ野に居る自分に捕らわれてしまいます。だからイエス様は神の国に生きていることに目を向けさせるためにみ言葉によって働きかけます。こうして教会に集まり、み言葉の恵みを受けるわたしたちですからそのことを深く心に留めたいと願います。

そしてその大きな助けとなるのは洗礼の思い起こすことであると私は思っております。イエス様が洗礼を受けたように、わたしたちもまた洗礼によって、父と子と聖霊の働きかけをその身に受け、神の国がもたらされたことを体験します。改訂式文で、洗礼盤の隣りで礼拝が始められるようになったことはその流れによることです。洗礼盤の隣りで招きが語られる度に、洗礼を受けた時のことを思い起こして、神の国のリアリティに与って欲しいと願います。そして求道中の方、洗礼を受けておられない方は洗礼盤を通して、神の国の到来を目撃し、そのことが自らの体験として、その身に起きることへ思い焦がれて欲しいと願います。

主は荒れ野に来られ、働きかけることによって、わたしたちは荒れ野に居ながら、神様の愛が支配する国に居るものとして生かされています。そしてみ言葉や礼拝を通して、わたしたちが神の国に居ることに目を向けることができるように助けてくださっているのです。

最後にもう一つだけ重要なことをお話しします。イエス様は神の国をどのような方法でもたらしてくださったかということです。それはイエス様が荒れ野で40日間を苦しみを過ごし、悪魔の誘惑を受けられたことによってです。さらに十字架への苦しみの道を歩むことによってです。イエス様ご自身は神様の愛にうちにいるわけですから、荒れ野に来ることも十字架にかかることも本来なら必要ありません。それでもイエス様が苦しみを受けられたのはわたしたちが荒れ野にいるからです。苦しみに耐えられないし、その中で自分勝手な思いによって罪を犯してしまうからです。「神の国が近づいた」という福音の喜びに与る時、同時にイエス様が苦しまれたことにも思いを向け、四旬節の時を過ごして参りましょう。