2024年2月4日 説教 松岡俊一郎牧師

みことばに集う民

マルコによる福音書 1: 29 – 39

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2023年は、新型コロナウィルスが第五類になって様々な規制が緩和され、教会の活動も再開しました。コロナ禍の前までは、教会の伝道、布教活動と言えば、様々な活動やプログラムをもって多くの人に教会に来ていただくことに重点を置いていたように思います。特にその面では大岡山教会はタレントを発揮し、活発にプログラムを展開し、成功していたと言えると思います。それは目標であり、私にとっては自慢であり、誇りでもありました。しかしコロナ禍によってそれは一変しました。一切の活動が制限され、一時は礼拝までも休止する事態になりました。それは教会にとって大変ショックな出来事でした。これは私だけではなく、多くの牧師たちにとっても大変衝撃でした。礼拝をするのがあたりまえと考えてきたものが、それが出来ないということで大きな戸惑いがありました。
しかしそのような経験をして、私たちは改めて私たちにとって本当に必要なものは何か、なくてはならないものは何か問われ、それは礼拝という確信にたどり着いたように思います。
多くのプログラムによってたくさんの方に教会にきていただき、聖書や福音に触れていただくことは、決して間違いではありませんので、これからも可能な限り活動を再開していきたいと思います。しかし私たちが改めて学んだ、教会は礼拝で勝負するという面を改めて確認したいと思います。礼拝の中に込められている説教と聖餐、讃美と祈り、信徒の交わりによって私たちは支えられ育てられていくのです。

私たちの社会は多様化し、様々な価値観が混在しています。また、豊かで華やかな社会の中で人との結びつきや人間性の豊かさは見失われているようにも思えます。貧困や孤独の中にいる人がいかに多いことでしょう。神様の愛はそのような方々にも豊かに向けられています。しかし多くの方々はそれを知りません。教会はみことばを通してそれを知っていただく使命を与えられています。

さて、マルコ福音書の日課は、イエス様のカファルナウムでの忙しい一日について書いています。カファルナウムはガリラヤ湖畔にあり、その地方の中では繁栄した町でした。徴税人アルファイの子レビ(マタイ)が働いていた収税所もあり、ユダヤ人のために会堂を立てたあのローマの百人隊長(ルカ7: 4)もここに駐屯していました。この場所はイエス様の伝道の拠点で、イエス様はマタイ9: 4でこの町のことを「自分の町」と呼んでおられるほどです。
そこでイエス様はまず、安息日に会堂で教え、けがれた霊に取りつかれた男からけがれた霊を追い出されます。そして今日の日課、シモンとアンデレの家に行かれます。その家ではシモンの姑が熱を出して伏せていました。イエス様が彼女の手を取って起こされると熱は去り、彼女は起きて一行のもてなしを始めたのでした。
夕方になって安息日が開けます。すると人々がぞくぞくと病人や悪霊に取りつかれた人々をイエスさまのところに連れて来ました。そこでイエス様は病気を癒し、悪霊を追い出されました。マルコは、イエス様がこの一日の間に、会堂、家の中、戸口つまり家の外で活動されたことを描くことによって、イエス様の働きが人の営みのすべての場所に及んだこと、さらにその働きが朝・昼・晩と一日中続いたことを印象付けようとしています。
一夜明け、まだ朝早いうちにイエス様は祈るために人里離れた所に行かれます。

イエス様にとって祈りは父なる神様との対話です。この対話があって初めて自分が立てられ送り出されるのです。長時間群衆と共にいる時間のためには、かえってこの祈りの時あ必要だったのです。しかしそれもつかの間、シモンたちが捜しにきて、イエス様を見つけると「みんなが捜しています」と言ってイエス様を人々のところに引き戻そうとします。イエス様が来られたのは、悪霊を追い出すことや病人を癒すためだけではありませんでした。それらの奇跡を行うためではなく、奇跡は目的のための手段でしかありません。不思議な業は人を驚かせます。惹きつけます。しかし、それだけで人は救われるわけではありません。奇跡は救いそのものではなく、救いへの入り口にすぎないのです。しかしシモンたちはそうは考えていませんでした。イエス様を再び奇跡の場に引き戻そうとしています。ここに弟子たちの無理解を垣間見ることが出来ます。たしかにイエス様が人々の驚きや関心、称賛を得るために来られたのであれば、その場に留まってもっと多くの奇跡の業を行えばよかったかもしれません。しかしイエス様はそれをのぞまれません。そこで「近くの外の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである。」と言われ、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されたのです。

マルコにとってイエス様は明確な意図をもってこられました。マルコは福音書の一番初めに「神の子イエス・キリストの福音の初め」と宣言し、イエス様のガリラヤ伝道の第一声も「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われています。つまりマルコはイエス様が福音を宣べ伝えるために来られたことをとことん強調したかったのです。ですから、今日の一日を報告する時も、イエス様が悪霊を追い出したり、病人を癒したりすることに人々が気を取られるのではなく、イエス様はみ言葉の宣教のために伝道の働きを始められたことを強調するのです。

パウロもまた福音を告げ知らせることを第一と考えていました。日課の中で、福音を告げ知らせることを「そうせずにはいられない」といいます。そしてされに「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共に与かるものとなるためです。」と言っています。パウロもまたキリストによってもたらされた救いに生かされ、それを伝えることが自分の存在の意義だと考えていました。そのためにはユダヤ人であるとか律法とか外的な条件などにとらわれず、福音を伝える一点に集中したのです。

今日は大岡山教会の年に一度の総会です。昨年の活動と教会の動きを振り返り、今年の歩みを始めたいと思います。私たちには様々な人生と生活、そこでの使命が与えられています。しかしその使命もキリストの十字架の救いのみ言葉によって支えられています。そのことを覚えて、一人一人の生活の歩み、教会の歩みを整えていきたいと思います。