2024年1月28日 説教 鈴木連三氏 (信徒)

はっきり現れる

マルコによる福音書 1: 21 – 28

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今日は仙台教会で年に一度の教会総会があります。松岡先生はそれに出席するため不在ですので、信徒の私が今日の第三礼拝の説教をさせていただいています。実は私、こうして聖書の解き明かしをするのは第一礼拝で慣れているせいもあるのですが、案外嫌いではありません。ここに集まっている方々の一部の方に気を悪くしてもらうつもりではありません、あらかじめお断りしておきますが、特に相手の年齢が低いほど楽しく感じます。本当に楽しいのはここの幼稚園でお話させてもらうときです。大岡山の園児たちは本当にかわいい、まっすぐ話している人を向いて一生懸命考えながら聞いてくれます。そんなこどもたちの中に、何十年あとでもいい、いつか神さまの方に向かって伸びる芽が出てくれればいいなあ、ちいさい芽でもいい、そんな芽を出してくれるような種を蒔くことができたらすてきだなあ、そう考えると本当に楽しいんです。
でも、毎週の聖書の日課は、お話をするのが楽しい箇所だけではありません。どう話せばいいのか悩ましい箇所もあります。そして今日の箇所はその悩ましい箇所です。今日のお話しは悪い印象が残りやすく誤解されやすいからです。ここで出てくる悪霊に取りつかれた男について、悪霊そのものについて、これらをどう理解してもらうのがいいか、そしてこのイエス様と悪霊の刺激的な戦いの向こうにある本来のテーマを小さい人たちにどう伝えればいいか・・・、今日は第三礼拝が担当で良かったです。

さて教会の暦・教会暦では今日は顕現後第四主日となります。この顕現と言う言葉には『はっきり現れる』という意味があります。教会暦の中で顕現を祝う日である顕現日は東方の博士がベツレヘムに生まれた幼子イエスのもとを訪れたことを記念する日で伝統的には1月6日に守られます。この日は外国人である博士たちが拝みに来た、救い主が世界に初めてその姿を現したということなので顕現を覚える日とされています。でもそれならば今日の箇所も人々の前にはっきりと救い主としての姿を現した、という意味では顕現を思い起こさせる出来事だと思います。
イエス様がヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、荒れ野で悪魔から誘惑を受けます。そしてガリラヤに戻って漁師たちを弟子としてスカウトして、今日の箇所となります。ここではイエス様は会堂で人びとの前に立ち、話をします。初めての具体的な宣教活動についての記事です。そういうことですので今日の箇所もある意味『顕現の日』だといえます。イエス様ご自身が現わされた救い主としての様子について今日の箇所を通して読んでいきましょう。

イエス様がカファルナウムへやってきました。カファルナウムはガリラヤ湖畔、北西岸の町で、ガリラヤでの活動のベースとなった町のひとつです。その町にイエス様は弟子たちを連れてやってきました。安息日になるとすぐに会堂に入り人々に教え始めます。当時のユダヤ教の会堂では聖書・・・旧約聖書のモーセの律法が朗読され、それを律法に詳しい人が解き明かしをしていました。ここで話すためには特別な資格は必要でありませんでした。律法学者と呼ばれる人々はモーセの律法をその時代に合わせて展開し、具体的なルールとして人々に示していたといわれます。
モーセの時代・3000年以上前に書かれた律法に『安息日に火を起こしてはいけない』というものがあります。例えばこれを現代に展開しようとすると、仕事をしてはいけないのが原則ですから『安息日にスイッチを押してはいけない』というふうに理解されます。それを生活に展開すると『自動車の運転をしてはいけない』とか『スマートホンを操作してはいけない』とか『エレベーターに乗ってもボタンを押してはいけない』といったルールになります。そういった解き明かしが会堂では通常だったと思われます。それに対し会堂で話のイエス様は人々をとても驚かせました。普通の律法学者の話とはとは明らかにベクトルが違う。次元が違う。『これはただものではない』会堂にいた全ての人に思わせるものがありました。今日の箇所には話の具体的な内容は書かれていません。ただそれが前のページの1章の15節にあるような『時は満ち、天の国は近づいた!』という宣言だったとすれば『あのですね、今読んだ律法はですね・・・』といった話に慣れた人々にはとてもセンセーショナルだったことでしょう。これが第一のポイントです。イエス様はしょっぱなの掴みの部分で会衆に強いインパクトを与えました。
でも会衆の誰もイエス様の正体にはたどりつけません。権威ある誰かだということはわかる。ただそれがどういう権威なのか、どこから来た権威なのかということは一人の人を除いてわかりませんでした。

そう、この会堂に一人だけその正体を言い当てた人物がいます。聖書には『悪霊にとりつかれた男』と書いてあった男です。
『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』
彼はすかさずイエス様の正体を言い当てます。現代の私たちにとっては『正体を当てて何になるの?』と思うところです。でも相手の正体を先に知りそれを言い当てることは昔の中東での霊と霊の争いでは重要なことでした。ですから悪霊はこうしてイエス様の正体を言い当てることで、戦いでの有利なポジションをとることに成功しました。それをイエス様はそれを力業ではねのけます。
『黙れ。この人から出て行け』
イエス様から強く叱られた悪霊はその男の人から出ていくと人々はさらに驚きます。『これは一体どういうことなのだ。』これが第二のポイントです。会堂でのこれらの出来事で“権威あるお方”が現れたことがガリラヤ地方にあっという間に広まりました。この地方の人々にイエス様の存在がはっきりと現わされたのです。

現代に住む私たちにとって、今日のような悪霊についての箇所はなかなか身近に感じにくいところです。そもそも悪霊だなんて印象が悪いです。悪霊に取りつかれるというとオカルトチックなホラー映画のような絵柄・・・首が180度反対にねじれたり、口から怪しい色のものを吐き出したりといった絵柄が頭につい浮び、非現実的に感じる人もいるかもしれません。また、悪霊に取りつかれているというのは、現代で言うと何か特殊な精神的な病にかかっていることである、だから健康な日常の私たちとは縁遠いものと理解されることもあります。でもこれらは誤解です。この悪霊というものはもっと身近にあるものです。
悪霊とは私たちを神から引き離そうとする意思、私たちの内側にあってみ心・神様の思いに背いた気持ちを抱かせる力のことです。これは私たち自身の意思とは別のものです。人間が自分でコントロールできない力です。ですから、悪霊に心を支配されてしまうとどんなに気持ちを強く持って正しいことを願っても、その支配を自力で改めるのは大変難しいのです。その悪霊のせいで人間は正しいと思いこんで悪い道を突き進んでしまうことがあります。良心の呵責に苦しみながらも悪事を改めることができないこともあります。
また、生まれつきの私たちはこのような悪霊・神様から私たちを引き離す力に対してノーガードです。私たち自身は決して悪霊のような存在ではありません。ただ悪魔の誘惑に対して免疫や耐性を持っていません。創世記に出てくるアダムとエバが蛇に誘われると簡単に誘惑に乗って木の実を食べてしまうように、私たちは神様から引き離そうとする力にめっぽう弱い存在なのです。

この弱さの元、それは人間の自己中心、自分を守り徹底的に正当化しようとする心です。キリスト教ではこれを『罪』といいます。『罪』とは法を犯す行為や道徳に反する行為だけではありません。心が神様の方を向かないで自分の方を向いている『的外れ』な状態、それが『罪』なのです。自分を大事にするというのはある意味当たり前です。自分自身を神様が創られたものとして大切にするのは人間のあるべき姿です。でも単純な自己中心・自己愛は様々な悪霊を吸い寄せます。目の前にある自分に理解できるものしか信じない姿勢、自分が素性を知っているものにしか頼らない姿勢、自分が共感できるものしか受け入れない姿勢、自分がコントロールできないものを排除したり無視する姿勢…、このような姿が自己中心です。そしてこのような『的外れ』な私たちは、現代社会での物質的な快適さ・豊かさを追求する物質主義、効率が何より優先され数字が人間をも支配する合理主義、相容れない他者を排除しようとする感情と過剰な自己防衛心が生み出す暴力、自己愛の裏返し・他者や社会への無関心が作る殺伐とした愛の無い心、そして弱者を顧みない競争主義に支配されてしまうのです。21世紀の日本に生きる私たちにとって、このような私たちを取り巻く得体のしれない『力』こそが現代の『悪霊』です。これらが私たちの中に入り私たちを支配し私たちを神様から遠ざける現代の悪霊です。
イエス様は人間が自分の力ではどうしようもできない『悪霊』の支配から私たちを解放してくださいます。今日の箇所のように悪霊が大声を上げながら逃げていくような劇的な場面に私たちが会うことはないでしょう。しかし、神様の方を向き自分中心の生き方をやめることで、自分と違う他者を受け入れる心、競争よりも共生を選ぶ価値観、平和と愛を求める生き方を手に入れることになるでしょう。神様の存在を認め自分の理解を超える神様のみ心に対して謙虚になることで、どのような困難の中でも心の平安を保つことができるようになります。イエス様は悪霊に苦しめられ、神様との交わりを失っていた私たちを、神や人との交わりに連れ戻してくださいます。その様子がはっきり示された=顕現されたのが今日の箇所なのです。