2023年12月17日 説教 河田礼生神学生

あなたは、どなたですか

テサロニケの信徒への手紙一 5: 16 – 24、ヨハネによる福音書1: 6 – 8, 19 – 28

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あなたは、どなたですか。
皆さんは、自分が何者であるかという問いに、特に教会に集まっている自分という脈絡の中で、向き合ったことがあるでしょうか。ここに集まる皆さんは等しく、み言葉の恵みを受けて、応えて、賛美をし、祈り、世界へ送り出されていくわけです。「どうしてあなたは、教会にいっているのか」と問われた経験がある方もいるかもしれません。それは「教会にいっているあなたは、どなたですか」という問いです。わたしたちは、何者なのでしょう。聖書から、そのことを聞いていきたいと思います。そこに、わたしたちを生かす力があると思うのです。

本日お聞きしました福音の日課は、洗礼者ヨハネが荒れ野で主を宣べ伝え、洗礼を授けているときの出来事です。先週も、この出来事について聞きました。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのすべての福音書にこの出来事は記されています。その中でも特に本日お聞きいたしましたヨハネによる福音書には、ファリサイ派に属している祭司やレビ人と、洗礼者ヨハネの問答が記されていることが特徴的です。

この問答のテーマはヨハネが何者であるかということでした。この問答の前の、6節から8節には「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」と記されています。この問答ではヨハネが自らのことばによってこれを証ししたと考えることができるでしょう。

そもそも祭司たちが質問したのは、ヨハネがどのような権威があって、主を宣べ伝え、洗礼を授けているのかを問いただすためでした。場合によっては、神殿の祭司たちの権威を脅かすからやめさせたいという意図もあったと考えられます。その点で「あなたは、どなたですか」という祭司たちの問いには「あなたはメシアのつもりか」という意味が込められていました。そこでヨハネははっきりとわたしは「メシアではない」と答えました。その後、「ではエリヤか」、「ではあの預言者か」と、さらに質問は続きます。エリヤやあの預言者(おそらくモーセ)、どちらも再来し、救いをもたらすものと考えられていた人物です。もしヨハネが彼らのうちのどれかであるならば、主の宣べ伝え、洗礼を授ける十分な理由となりました。しかし、どの問いに対してもヨハネはそうではないと答えました。
それでも、ヨハネがどういう権威を持っているか問いただしたかった祭司たちは「はい。そうですか」と納得するわけにはいきません。「それではいったい、だれなのです」と質問します。ヨハネは何者であったのでしょうか。ようやくイザヤ書のことばを引用しつつ、ヨハネ自身が証しをしました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と。これによって、ヨハネはどのような権威で、主を宣べ伝え、洗礼を授けているのかという問いに、はっきりと回答しました。つまりヨハネは神様から与えられた役割によって、宣べ伝える声であるのだと答えたのです。わたしを叫ばせるのは神様であると。それは神様が行う宣教の一部分であるという確信でした。ヨハネは「あなたは、どなたですか」という質問に向き合う中で、自分自身と向き合い、その先に働かれる神様と向き合い、指し示しました。

さて「あなたは、どなたですか」。わたしたちはよい知らせを告げ知らせる神様の声であり、愛の奉仕の業を担う神様の手です。パウロはコリントに向けた手紙の中で「あなた方はキリストのからだであり、また、ひとりひとりはその部分です(コリントの信徒への手紙一 13章27節)」と述べています。教会に集まっているわたしたちはキリストのからだなのです。そのかしらはイエスさまです。それも、わたしたちが何か神様のために働くからキリストのからだなのではありません。神様がわたしたちの働きを神様の働きとしてくださるのです。

本日のパウロの手紙の中に「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。・・・あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」と記されています。必ず神ご自身が、わたしたちを全く聖なるものとしてくださるのです。わたしたちは神様によって、神様と共に働くものとされるのです。それゆえ、わたしたちはキリストのからだであるのです。わたしたちはみ言葉の恵みを受けて、応えて、賛美をし、祈り、世界へ送り出されていきます。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝をすることができます。

わたしたちが「自分自身が何者であるか」に向き合うときに、そこに働く神様の力を見ることができます。神様の力によってこの世界に送り出され、生きていくわたしたちに気づくことができます。そのとき、わたしたちの心のうちにイエスさまが共に宿ってくださり、神様への道も整えられているのです。それはヨハネがそうであったようにイエスさまを指し示す生き方です。イエスさまを証ししていく生き方です。主は光として、わたしたちを照らし出してくださっています。わたしたちを愛によって結び、一つのからだとしてくださっています。イエスさまのお生まれを待ち望む待降節の期節に、そのことを覚えることがイエスさまを迎える一つの備えです。キリストのからだとしての、わたしたちの歩みを喜び、楽しんで過ごして参りましょう。