2023年12月10日 説教 松岡俊一郎牧師

主の到来を迎える

イザヤ書 40: 1 – 11、ペトロの手紙二 3: 8 – 15、マルコによる福音書 1: 1 – 8

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私が最初に赴任した山口県の柳井市周辺では、かなりの山道でも舗装されていました。特に「農面道路」と言って農作業用道路が充実していて、ほとんど車が通らないような山道でも二車線のきれいな道が張り巡らされていました。山口県が多くの総理大臣を輩出しているということが影響していたと思います。しかし、他の国々ではこれほどまでに舗装されている国はあまりないのではないでしょうか。東京でも舗装されてない道はほとんどないと思いますので、私たちは普通の生活の中では道の険しさは経験しません。険しさというと、生活や生きることの険しさ、厳しさということではないでしょうか。

さて、マルコ福音書は、冒頭からイザヤの預言を引用します。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」引用されたイザヤ書40章の作者は39章までのイザヤと違います。彼は便宜上「第二イザヤ」と呼ばれ、預言者イザヤが王に対しても影響力のあった預言者であったのに対して、第二イザヤはユダヤの民がバビロンに捕囚となっていた時に活躍した無名の預言者です。彼は捕囚の民と共にいて、ユダヤ人がバビロン捕囚から解放されることを預言したのです。それは紀元前539年に現実のこととなりました。ペルシャの王キュロスがバビロンに無血入城し、捕囚民のエルサレム帰還を許可したことによって、捕囚民は紀元前538年以降帰国の途に着くことになります。バビロンからイスラエルの間には、その最短距離上にはアラビアの砂漠と荒野がありますから、普通はユーフラテス川沿いに一旦北上し、それから南下しながら西に向かって行きます。しかしイザヤによれば、神様は少しでも早く民を解放し帰還させるために、遠回りではなく、荒れ野と砂漠を突っ切って最短距離で帰してくださると預言するのです。イザヤの預言は「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」と続くのはこのことを言っています。つまり「道を整え、その道をまっすぐにせよ」とは、誰かにそうせよというのではなく、神様がそうしてくださるとの約束の言葉なのです。これは一刻も早く救いを実現しようとされる神様の意志の現われなのです。それでは、その預言がイエス様のお誕生の前に語られるとはどういうことでしょうか。

マルコはイザヤを引用しつつ、この預言は洗礼者ヨハネの登場によって実現したと述べています。つまりイザヤの預言は、バビロン捕囚からの解放だけを預言していたのではなくて、これから登場する洗礼者ヨハネによって示される救い主の到来を伝えると言うのです。
ご存じのように、洗礼者ヨハネはイエス様よりも半年ほど先に生まれ、イエス様の母マリアの親類であったエリザベトを母に持ちます。ただヨハネによる福音書1章33節で洗礼者ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と言っていますので、親交があったわけではないようです。イエス様が30歳を過ぎて公けの生涯を始められるころには、彼はすでにヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていました。そのあり様は、昔の預言者を彷彿とさせるように、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜とを食べていました。彼は人々に「悔い改めよ、天の国は近づいた」と説き、また当時の宗教指導者であったファリサイ派やサドカイ派の人々には、「マムシの子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでもアブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」と、大変厳しいことを言っていました。人々は洗礼者ヨハネの預言者的な姿とその厳しい言葉を聞き、この人こそ「来るべき救い主ではないか」と考え、続々と洗礼を受けていたのです。しかし、そのように考えていた民衆に対して洗礼者ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊でお授けになる」と言います。洗礼者ヨハネは、自分ではないと言います。ヨハネ自身が授け、当時は慣習的にも行われていた水の洗礼を、それだけで十分ではないことを示し、むしろキリストが授ける聖霊による洗礼が必要であることを教えるのです。洗礼者ヨハネが伝えようとしたことは、悔い改めて救い主を迎える準備を確かにせよということでした。

この言葉が私たちに語られていると考えるならば、私たちは聖書を学び、悔い改め、祈り、必死になってその道備えをしなければならないと考えてしまいます。事実教会もそれらのことは大切なこととして教えますから、救いにふさわしい努力をして正しい信仰を身に着けなければならないと思います。第二の日課であるペトロの手紙二もまた、神は約束の実現の日を忍耐して待っておられる。だからこのことを望みながら「傷やけがれが何一つなく、平和に過ごしていと神に認めていただけるように励みなさい」と言っています。しかし、はたして人は自分自身の力や努力で天の国、救いの道を得ること、キリストの来られる道を整えることは出来るでしょうか。いったいメシアがこられる道を備えるとはどういうことでしょうか。むしろ、民衆がヨハネをメシアと誤解したように、私たちも導きなしには救い主と出会うことは出来ないのではないでしょうか。

私たちの前にも険しい、厳しい道があります。人は生きる中で様々な困難や孤独に出会います。生きることがつらいと感じることがあります。しかし人はそれでも生きていかなければなりません。聖書はその険しい道を、私たちに整えよと言っているのではありません。キリストご自身が道となり、私たちが救いにいたる道となってくださり、イエス様ご自身がその険しい道を通って私たちのところに来てくださるのです。ヨハネによる福音書14章6節でイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」といわれています。私たちはその道を信じ、受け入れ、その道をたどって行くだけです。その意味で、洗礼者ヨハネのいう道を整えることは、私たちの身を整える努力ではなく、キリストに生きるということに他ならないのです。

洗礼者ヨハネの使命は、イエス・キリストを証しすることでした。ヨハネは叫ぶ声として呼びかけ、私たちはヨハネの証しに導かれ、イエス・キリストと出会うのです。救い主は赤ちゃんイエス様として姿を現されました。それは神様が人となられた奇跡です。そして、クリスマスにイエス・キリストとして私たちの前に姿を現されたイエス様と出会い、やがて十字架と復活を知ることになます。そこで神様の決定的な愛を知るのです。そして今度は、私たちが叫ぶ声となり証しする者へと変えられていくのです。