2023年10月29日 説教 松岡俊一郎牧師

まことの自由が与えられる

ヨハネによる福音書 8: 31 – 36

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この時期は、街のあちらこちらでオレンジのカボチャの飾りを目にします。ハロウィンの飾りものです。時々誤解されていますが、ハロウィンはヨーロッパで始まった習慣ですからキリスト教とまったく無関係というわけではありませんが、キリスト教のお祭りではありません。もともとはヨーロッパのケルト民族の収穫祭であり、一年の終わりである10月31日に精霊や魔女が集まると考えられていました。カトリック教会では11月1日を「諸聖人の日」として守っていますので、その前に精霊や魔女が大騒ぎをするというのです。しかしカトリック教会もハロウィンを教会の行事としてはいません。

中世の時代には10月31日は諸聖人の日の前夜ということで、教会の周りにはたくさんの人々が集まってきていました。諸聖人の日には、聖人の聖遺物が展示され、それを多くの人が見物に来たからです。その人が集まる時を考慮して、修道士であり、神学教師であったマルティン・ルターがヴィッテンベルグの城教会の扉に「贖宥の効力を明らかにするための討論(いわゆる95カ条の提題)」を貼りだしたとされています。当時は、そのような議論を巻き起こすための行為が普通に行われていたといわれています。これが宗教改革の発端と言われていますが、実際には騒動になったのはもう少し後のようです。いずれにしろ、当時絶大な権力を有していたローマカトリック教会に疑義を申し出たのですから、大変なことであったことは違いありません。

この贖宥というのは私たちにはあまり聞きなれない言葉ですが、当時の教会は資金集めのために、贖宥券(免罪符)を購入すれば、死んだ後に行く試練の場所である煉獄で苦しんでいる先祖の魂が、救われると勧めていたのです。ルターはこれに対して疑義を唱えたのです。キリストの十字架と復活による贖いでは救いが十分でないかのような教えは正しくない。また救いは贖宥券購入というような行為によって得られるものではなく、ましてやお金がチャリンと音を立てて投げ込まれた時に霊が解放されるなどというのはまやかしであると主張したのです。この主張の背景は、ローマ書3章にある「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです。」「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」これらのことばに端的にあらわされています。このような主張に当時の教会は、厳しい反応を示します。審問官をたて、ルターに真意を問いただし、国会において撤回を求めるのです。しかしルターはそれを拒否し、破門され、宗教改革のうねりが広まっていくのです。

ルターの主張のもう一つの面は、律法の問題です。それは今日の使徒書や福音書の日課のポイントでもあります。
イエス様の時代のユダヤ教の教えの中心は、神殿礼拝と律法の遵守です。モーセの律法に加えて、多くの戒めが加えられ、膨大なものになっていました。律法が人々の生活の規範であり、救いの条件です。まさに律法が人の行動の規範、心の規範として支配していたと言っていいと思います。そこには束縛ということはあっても、自由という発想はなかったと思います。あえて言えば、律法を守ることによって得られる満足感とそれをしていない人への優越感はあったかもしれません。旧約聖書で「自由」という言葉を検索すると、奴隷や捕らわれからの解放という意味での自由という言葉は出てきますが、今日私たちが考えるような信仰的に救われ、精神的に解放された自由ということはほとんど出てきません。ルターが問題としたのは、ユダヤ教が律法によって人々を束縛し、支配していたと同じように、中世では、教会が、ことにローマ法王を中心とする教皇性が人々の心を束縛し、支配しているということでした。

さて、聖書の時代のユダヤは、神殿中心の社会でした。出エジプトの出来事の際に神様がユダヤ民族を裁きから過ぎ越してくださった民族的な祭の「過越しの祭」、秋の収穫祭であり荒野の生活を思い出す「仮庵の祭」、七週の祭とも呼ばれた春の収穫祭の「五旬祭」、この三大祭をはじめとして様々な祭が神殿を中心に行われ、それが民の一年の生活のリズムを形作っていました。イエス様の時代の神殿は、ヘロデ大王の時代に建設がはじめられたもので、まだ建築中でした。しかしその豪華さはマルコ福音書で弟子の一人が「先生、ご覧ください。何と素晴らしい死、何と素晴らしい建物でしょう」と驚嘆しています。神殿は、ダビデからソロモン王の時代に、モーセの十戒の契約の板をおさめた箱がこの場所に安置されたとする至聖所と呼ばれる場所を神聖な場所としていました。その外側に、ユダヤ人の男だけが入ることができる場所、女性が入ることができる場所、そして異邦人も入ることのできる広めの「異邦人の庭」と呼ばれる場所がありました。この異邦人の庭では、遠く離れたところから巡礼にくる人々のために犠牲の動物を売っていました。また当時の通貨はローマの貨幣でしたが、そこにはローマ皇帝を神とあがめるように像が刻まれていました。さすがにそれを神殿にささげるわけにはいきません。そこで、ユダヤ人たちは古いユダヤの貨幣に両替をして捧げていたのです。つまり動物を売る人々も、両替屋も神殿礼拝には必要なものだったのです。そのような理由で異邦人の庭は、大変なにぎわいになっていたと思われます。そこには、神聖な場所を商売で汚していたと簡単に言い切れない、宗教的に真面目で合理的な理由もあったのです。

ユダヤ教にとって何にもまして重要な神殿礼拝。しかし、イエス様はいびつになってしまった神殿礼拝から真のヤハウェ礼拝を取り戻そうとされたのです。出来事だけを見れば、人々にとってはイエス様の乱暴な行為、神殿への冒涜としか映らなかったかもしれません。しかしイエス様はまことの救いへの回復、律法の束縛からの解放であったのです。

私たちはどうでしょうか。もちろん今の時代の私たちは、ユダヤ教の律法にも、教会の力にも束縛されてはいません。しかし、本当に自由であるかというと、それも怪しい。確かに時代が変わり、価値観が多様化し、何でもあり、何をするにしても自由になりました。それでは私たちの心が本当に解放されているかといえば、そうではないように思います。心の病にかかる人が増え続けています。本当に自由であるならば、解放されているのであれば、こんな現象は起こっていかないのではないかと思います。自由になる半面、別なところで監視され、評価され、束縛されていると感じているのではないでしょうか。自由と言いながら、本当のところで、一人の人間として自由な考えをもち、自由な気持ちをもち、自由な行動がゆるされているとは思っていないのではないでしょうか。プレッシャー、ストレス様々な攻撃を受けながら、それに締め付けられながら、耐えながら生きているのです。それは外からの束縛だけではありません。自分の心を自分で縛りつけている何かがあるように思うのです。

イエス様は「真理はあなたたちを自由にする」と言われます。真理とは何でしょうか。ヨハネ14章6節では「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われています。イエス・キリストこそが真実なお方であり、私たちを様々なとらわれから解放し、自由にし、生かしてくださるお方なのです。このキリストを信じる時にこそ、本当の自由が与えられるのです。様々なルールからの自由、常識からの自由、世間体からの自由、評価からの自由、優越感からの自由、劣等感からの自由、欲望からの自由、様々なものからの自由がキリストによって与えられるのです。しかしそれは無秩序を意味するのではありません。マルティン・ルターは「キリスト者の自由」の中で「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する」と言っている通りです。キリストによって自由を与えられた人は、強いられてではなく喜んで他者に仕え、社会に仕えるのです。自由は愛を生みだします。神様の自由が愛と一つだからです。自由によって生み出された愛は他者へと向かうのです。キリストを信じる者に求められる愛と奉仕の業は、この自由に基づきます。強いられてではなく、自由な思いで他者に仕えるのです。