2023年10月8日 説教 松岡俊一郎牧師

隅の親石

イザヤ書 5: 1 – 7、マタイによる福音書 21: 33 – 46

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旧約聖書の日課はイザヤの預言です。イザヤは紀元前736年ごろから690年ごろまで活動した預言者です。権力者たちにも影響のある預言者であったと言われていますが、時の権力者や宗教者指導者たちが神の言葉に耳を傾けず、傍若無人にふるまっていたことを批判して預言しました。ぶどう園の労働者は、良いぶどうの実りを得るために畑を耕し、手入れします。しかしその実りはぶどう酒を絞るには酸っぱすぎるものでした。そのためにぶどう園の主人は囲いを取り払い、外から人が来て荒らされ焼かれても、なすがままにし、これを見捨てます。そしてそこには茨やおどろが生い茂るのです。これは神様の声に聴き従わない人々に対する裁きの言葉です。そして7節は言います。「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑、主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに、見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに、見よ、叫喚(ツェアカ)。」ここで言われている裁きとは、「司法とか裁判とかいった領域に限定されることなく、人間生活が繰り広げられるすべての領域において、人間を幸いにする秩序である」と言われています。正義は「神と人間との関係、あるいは人間と人間との関係に対する、それぞれの誠実さ」のことです。つまり、神様との正しい関係、人間同士の誠実な関係を神様は求めておられたのに、人間は神様を裏切り、自己中心的な生き方を改めず、世界は流血と叫喚に覆われてしまったのです。

福音書の日課はイエス様の祭司長や民の長老をはじめとする宗教指導者への厳しい批判であり、辛辣なたとえです。ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りやぐらを立てて、農夫たちにかして旅に出かけます。収穫の時が近づいた時に、収穫を受け取るために僕たちを送ります。ところが農夫たちはこの僕たちを捕まえて袋叩きにして追い返し、あるいは殺してしまうのです。家の主人は神様のこと、僕たちは預言者、農夫たちは祭司長や民の長老たち、宗教指導者たちのことです。イエス様の時代は、エルサレム神殿も建ち、ユダヤ教も律法を中心とする教えも儀式も確立していました。宗教指導者たちは政治的な権力者たちと結びついており、ユダヤ人たちの中では特別の力をふるっていました。それは律法によって神様の救いを伝えるというよりも、預言者の言葉に耳を傾けることをせず、自分たちの欲望と権威のために、かえって律法を民衆を苦しめる道具としてしまっていたのです。

たとえの家の主人はさらに多くの僕たちを送り、農夫たちがことごとく彼らを殺してしまうという言葉は、その様子を表しています。たとえは続きます。そこで家の主人は「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と息子を送ります。ところが農夫たちは、その息子を見て「これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう」と息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。この息子とはイエス様ご自身のことであり、ぶどう園がエルサレムの城壁の内側だとすると、その外とはイエス様が十字架にかけられるであろうゴルゴダの丘が暗示されています。つまり、神様は預言者を送り人々に神に立ち返るように求められますが、人々はそれに耳を貸さずむしろ預言者をないがしろにし、最後の手段として送られたイエス様までも十字架にかけて殺してしまうと、たとえを通して語られるのです。このたとえの労働者たちは愚かです。跡取り息子を殺したら、ぶどう畑やその収穫が自分の手に入るという大きな間違いを犯しています。家の主人は自分の息子を殺した者にどうして貴重な財産を渡すことがあるでしょうか。さすがの祭司長や民の長老たちも、このたとえが自分たちのことだと気づきます。

人間が私利私欲に走り、あるいや地位や立場、権力を守るのに躍起になって自己保身に走る時には、人の命さえも軽んじてしまうことは、私たちも度々目にすることです。現在の様々な事件の裏には欲望がまみれています。特に私たちの生きる社会は経済を中心とした社会ですから、強盗や詐欺をはじめとするお金にまつわる事件が後を絶ちません。また政治の手法や出来事、政治家の態度を見ていると権力に囚われている人々の恐ろしさと醜さを強く感じます。イエス様はそのような人間の醜さを見据えておられます。

旧約聖書における神様の理解は、裁きの神であり力の神でした。もちろん人間を愛される神ではありましたが、その愛は民が神様との契約を守ることが条件でした。しかし、新約聖書で描かれている神様は、怒ることをやめ、力によって裁くことをやめ、愛される神様です。それも、どんなに人間が悔い改めることをせず、神様を顧みることをしなかったとしても、独り子イエス様を十字架にかけるほどに愛し続けられる神様です。もちろん、だからといってその愛を知りながらその愛に応えようとしない者には、最後の審判の時に裁きが用意されていることは教えられているのですから、その愛にあぐらをかいて、神様のみ心を無視することはできません。ひとり子イエス様を十字架にかけてまで人間を愛し、救おうとされる神様が人間の滅びを望まれるはずはありません。しかし、人間は自らの貪欲さと傲慢によって滅びを選び取ろうとしているのです。神様との正しい関係、神様の前での謙虚さ、人に本来与えられた愛の関係、十分すぎるほどの恵み、それなのに、人はそれらの神様の愛を忘れ、無視し、人間的な私利私欲と傲慢に生きているのです。私たちは預言者イザヤの言葉、イエス様のたとえの前でどのような道を選び取るでしょうか。

しかし、それにしても、神であり、その独り子であるイエス様が十字架にかかるということは、神が人間のために死ぬということですから、普通では考えられないことです。むしろ人間のために死ぬ神なんて神ではないと思うのが普通かもしれません。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」この言葉は詩編118編の22,23節の引用ですが、もともとの意味は、バビロニヤにおいてこの世界から捨てられた状況に置かれていたイスラエルを、神は「神の家の土台」とされるという希望の預言です。つまり、この世の支配者たちが無用のもの、邪魔なもの、捨てるべきものと考えているものを神は選び、救いのかなめ石とされるのです。福音書記者はこの考えを、あえてイエス様に当てはめ、十字架にかかり、人々にとって価値のない、むしろつまずきの石でしかないと思われているお方を、あえて救いの礎とされたと証言するのです。この救いの十字架があって初めて、私たちの救いも実現しました。まさにそれは「主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」救いの御業です。