2023年9月10日 説教 松岡俊一郎牧師

交わりの中におられる主

マタイによる福音書 18: 15 – 20

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私たちの間には、しばしば気持ちのすれ違い、意見のくい違いが起きます。それを互いの考えの違いとして受け入れ、尊重し合い、協調点を見出すことができればそれでいいのですが、どちらも熱心であればあるほど自己主張が強くなっていきますので、解決はそう簡単ではありません。

福音書の日課で問題になっているのは、単なる意見の食い違いではありません。人があなたに対して罪を犯した場合です。どんな罪を犯した場合か。私たちは、正しい生き方、良い生き方を目指していますが、罪がないかと言えば、そう断言できる人は多くはないと思います。そもそも神様との関係では、すでに罪びととして存在していますので、罪がないとは断言できないのです。しかしイエス様は「あなたに対して」と言われています。つまり、私が攻撃されたり、うそをつかれたり、傷つけられたりしたときのことを言っており、そのようなときには黙って見過ごすべきではないと言われているのです。もちろんやられたらやり返すというようなことではありません。たとえ自分に対してとはいえ、相手の罪を指摘するという事は、勇気のいることです。今申し上げたように、自分の中にもいつも罪というものがあります。それは人それぞれ違いますが、人の罪を指摘するほど自分は立派ではないと思うのが私たちの普通の感覚でないかと思います。そもそも自分に対して罪を犯されたら、その相手とは敵対関係のような状況になってしまいそうです。

さて、イエス様はまず二人で話し合う事を進めておられます。二人での話し合いで解決するならばそれにこしたことはありません。しかし今申し上げたように、すでに敵対関係に近い状況になっていますから、こじれて、攻撃や憎みあいになって感情的にまで発展してしまう事も少なくありません。その場合、もはや二人では解決出来ないのですから、複数の人の前で語り合うように進めておられます。今日の日課には「忠告しなさい」という言葉が出てきます。日本語で「忠告」というのは強い言葉です。上から下への印象を持ちます。もちろん聖書の言葉にも、いさめるという意味がありますが、元をたどると「光の下に連れて行き、光にさらす」という意味があります。つまり、忠告というとき、相手を追い詰める、攻撃的に諭すというより、その事実、出来事を公明正大に明らかにするのです。そしてそれはさらにいうと、人の前にさらすのではなく、神様のもとに明らかにするということがここで指摘されているのです。人は裁きあうべきではありません。最近は、何かというとクレームを言うケースが増えています。人を攻撃することがあたかもいいことのようにあちらこちらで起こっています。バッシングしたり、クレームを言う人は、自分は常識がある、自分は正義だと思い込んでいます。また、偏見や差別意識に基づくことがあります。人には様々な視点や価値観、状況がありますから、自分が絶対と考えるのは誤りです。ましてや悪意に基づくなど言語道断です。

さて、信仰的な理解で考える時、その忠告の判断の根拠は、正しいかそうでないかは神様が判断されることです。私たちは人との関係の中だけで考えるのではなく、神様の下で神様の判断に任せるのです。それでは人はどうすればいいのでしょうか。
イエス様は「二人だけのところで忠告しなさい。聞き入れられたら、兄弟を得たことになる」と言われています。ここに主が求めていることがあります。忠告するのは、相手を攻撃していい気分になるためではなく、やり込めるためでもありません。そこには兄弟を得るという目的があるのです。相手と良い関係として生きるという目的です。そのためには愛がなければなりません。クレームや攻撃的な忠告には、愛がありません。自己満足と自分の利益だけです。しかし私たちの間ではそうであってはならないのです。

それでも和解に至らない時には、教会の秩序の中で判断されるとわれています。それでも解決しない場合は「異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」と言われています。これは一つの裁きのように聞こえます。しかし思い起こして下さい。イエス様は異邦人や徴税人にどのように接せられたでしょうか。愛をもって友となり、彼らを救われました。自分たちで、教会で、解決できない時には、イエス様の愛にゆだねなさいということではないでしょうか。そこでは自分たちの力で解決できない、愛の弱さを反省する気持も教会には必要だと思います。

今日の厳しい響きを持つ福音書は、あくまで「愛によって兄弟を得る」ということが求められています。そしてその交わりの中にイエス様がいてくださり、その交わり、教会を神の国としてくださるのです。イエス様は最後に「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われています。これは教会の権威に対して言われていることです。しかし教会の権威と言っても、教会に無条件に特別な力が与えられているのではありません。この権威は、天上の父なる神とイエス・キリストに由来し、その責任が託されているという事です。私たちの教会は、この世の組織でありつつ、さらに人の集まりでありつつ、天国につながれた神の国のひな型です。神の国では愛がすべてに充満しています。従って、私たちの教会も愛が充満する場所なのです。イエス様はそのような私たち、二人または三人がイエス様のみ名によって祈るとき、そこにいてくださると約束してくださいます。

これからも、様々なことに注意を払いながらではありますが、神の民、神の国のひな型として、愛の満ち溢れる教会形成と宣教に励みたいと思います。