2023年8月27日 説教 松岡俊一郎牧師

告白の幸い

マタイによる福音書 16章13節~20節

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神様を信じるためには、まず神様の存在に気づき、神様に心を向けなければなりません。そして普通に考えるならば、私たちは信じることができるように努力します。この時点では、信仰は私から神様に向かっています。私が神様に心を向け、私が学び、祈る。礼拝出席などを努力し、信じるように私が頑張るのです。ところが、教会は実はそのようには考えていません。ここでは、私は、「私が」「私が」というところにとどまっています。しかしこの「私が」「私が」の心を神様に明け渡して「神様が」「神様が」になる時、そこには確かな信仰が与えられるのです。これも私の努力でそうなるのではなく、神様の働きを受け入れる、心を開くということだけで、あとはすべて神様が聖霊を通して働いてくださるのです。しかし、この心を開くということは簡単なことではありません。私たちはどこまでも自分の心を自分のものとして持っていたい、明け渡したくないからです。実はそれは罪にとどまりたいという働きに他ならないのですが、それには気づかず、とにかく神様に自分を明け渡すことにためらってしまうのです。しかし、だからといってあきらめる必要はありません。神様はあきらめずに、私たちの心の扉をノックし続けられるからです。み言葉を通して、礼拝を通して、教会の交わりを通して、私たちの心の扉、信仰の扉をノックし続けられます。そして私たちはいつの間にかその扉を開いているのです。そこには神様の働きがありますから、私たちは自分で開いたという自覚はないかもしれません。いつの間にか、です。私たちはこの「いつの間にか」に不安を覚えます。それは確かなことだろうかと。しかし大丈夫です。それは神様が開いてくださっているからです。私が開けたのではなく、神様が開いてくださったからです。

さて、イエス様は弟子たちに「群衆はわたしを何者だと言っているか」とお尋ねになります。弟子たちが人々が「洗礼者ヨハネだ」とか「預言者エリヤ」だと評判を答えると、さらに「それでは、あなたがたは、わたしを何者だというのか」と問われました。イエス様を何者だと答えることは、とりもなおさずイエス様をどのように理解しているかを表しますし、答える人がイエス様をどのような関係で見ているかということもあらわすのです。あいまいさを許さない問いです。この問いに対してペトロは「神からのメシアです」と答えます。ペトロの答えは模範的なものでした。しかしこのメシアという答えと一般民衆の中に沸き起こっていた世直しをする政治的なメシア待望論が結びつくと大変な騒ぎになります。第一それはイエス様が意図されていることとはまったく違うからです。そこでイエス様は「このことを誰にも話さないように命じ」られます。そして、続けて受難予告をされるのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」イエス様がペトロに向かってよしとされたメシア像は、十字架という苦しみを受け、復活することによって神様の救いを実現するメシアなのです。

今日の個所は、「ペトロの信仰告白」と呼ばれます。信仰告白は、ペトロだけがしたものではなく、信仰者ならば誰もがすることです。申命記6章の「聞け、イスラエルよ」で始まる言葉も、当時の信仰告白と言われますし、ピリピの信徒への手紙2章6節以下「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなられました。・・・」も初代教会の信仰告白と言われます。そして、教会という共同体は、この信仰告白によって形成されているといえます。私たちが礼拝の中で唱えている使徒信条やニケア信条などは信仰告白を一つの形にしたものですし、教会がのちの異端と呼ばれる異なる教えに脅かされたとき、自分たちの信仰を確認するために作ってきたのです。自分たちが何を信じているかを明らかにしたのです。その意味で、イエス様を誰というかという問いに答えたのです。そしてこの信仰告白は、自分の信仰を告白するだけでなく、私の信仰をも強めます。信仰を告白することは、自分の信仰の確認です。イエス様がどんなお方かを確認することは、神様がどれほどに私たちを愛し、どのようの仕方で救おうとされたかがわかるからです。確認は自分がこの信仰に立っていることを教えます。さらにこれを告白する共同体によって支えられていることを教えるのです。私の信仰は私一人の信仰ではなく、教会という共同体の信仰に支えられた信仰なのです。主の祈りもそうです。主の祈りは「私は」ではなく、「私たちは」と祈ります。それは共同体の祈りです。共同体の祈りは、そのうちの一人、私であるときもあるし、ほかの人であるときもありますが、その人の信仰が弱くなり、心が離れる、祈れなくなった時も、共同体がとりなして祈ってくれるのです。

イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と言われました。この言葉が初代教会の迫害の時代を反映していることは明らかですが、初代教会とは違った姿で危機的状況にある今の私たちにも語られる言葉です。イエス様に従うことは、平和な時代にあっても、宗教への偏見や差別、家族や職場との関係がありますからたやすいことではありません。誰にも信仰や教会生活のことを話さない「小さな隠れキリシタン」にならなければうまくいきません。いや、話さないほうがうまく生活できます。しかし、それはやがて私たちの信仰を弱めます。信仰抜き、教会抜きの生活を優先せざるを得なくなるのです。先ほど申し上げたように、信仰は告白することによって強められるのです。パウロはローマの信徒への手紙10章で「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」と言っています。

今や、私たちの国は、戦争をしない国から、戦争をする国に変わってきました。武器の輸出を促進したり、外国と新たな武器の共同開発に着手したり、核兵器の使用をも認めようと発言する議員まで現れ始めました。完全に平和憲法が破壊され始めました。そんな時代に生きている私たちは、今、力による平和でなく、愛による平和を求める聖書信仰を告白していかないならば、もっと厳しい時代がきて、偏見や差別、弾圧や迫害が起こった時にはひとたまりもないのです。日頃から私たちは、イエス様が私たちの十字架を負ってくださったように、私たちも自分の信仰のために、自分の十字架、信仰を貫くための困難さを負わなければならないのです。そして神様は信仰告白を通してその力を私たちに与えられるのです。