2023年7月2日 説教 松岡俊一郎牧師

受け入れる

マタイによる福音書 10: 40 – 42

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

私が牧師になって39年になりますが、牧師に任用されて派遣されるとき、今でもそうですが雇用契約がありませんでした。雇用保険もなく従って失業手当もありません。牧師は勤務時間が定まらず、ある意味24時間営業でしたから、以前は「牧師は労働基準法が定める労働者には当たらない」という見解でした。ですので雇用契約がなくても成り立っていました。しかし最近では労基法が厳しくなって、給料を定期的にもらっている以上労働者と認定され、最新の教会の検討課題は牧師をどのように労働者として位置付けるかの議論が始まろうとしています。しかし私が赴任したころはそういう議論は無縁でしたから、私は初任給がいくらか知らずに任地に行きました。どんな待遇が用意されているかも全く関心がなく、赴任先がどんな教会でどんな働きをするのか、それが出来るかという思いで頭がいっぱいでした。
最近の牧師たちの考えはわかりませんが、待遇を気にする神学生はあまりいないのではないかと信じたいと思います。
伝道者、牧師は神様に仕え、教会に仕える仕事であり、そのような人生を歩みます。神様の言葉を伝えること、教会の宣教に奉仕することが第一で、自分の生活は二の次です。そうでないとやっていけないという面もありますし、それが牧師を牧師たらしめる働きの原動力でもあります。

イエス様も弟子たちを召し出し、派遣されます。迫害の予告、心構えを伝えてきました。この弟子たちにも何の保証もありませんでした。むしろ福音書では、弟子達がそして初代教会の人たちが遭遇したに違いない家族との衝突を例にあげ、弟子として生きる厳しさを伝えています。当時は子どもは親の生き方を踏襲するということが原則でした。ですからユダヤ教を信じていた者がイエス様の新しい教えに従うこと、ローマの神々とその秩序の中で生きてきた者が、辺境の宗教指導者イエスが教える道に入るということは、家族をはじめとするそれまでの人間関係と決別する覚悟が必要であったのです。

さすがに今の牧師たちが、社会常識にとらわれず、家庭を顧みずというわけにはなかなか行きませんが、その意気込みは持ってほしいものだと思います。
今日の日課の前、37節以下には「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担って私に従わない者は、わたしにふさわしくない。」
十戒の第四の戒めに記されている両親を敬うべきことも、隣人への愛も神様を神様として信じ従うことを前提に書かれています。神様への信仰があってこそ真実の愛を知ることができ、神様の愛に促されてはじめて私たちは家族を愛し、隣人を愛することができるのです。つまりイエス様は、家族や隣人への愛の前提としての信仰を述べておられるのです。この前提となるものをおろそかにして、家族関係や人間関係を考えてもそれはその場しのぎになったり、表面的なもので危機的な状況の時にはぐらつき、破たんを起こすことがあるのです。信仰は私たちの生き方の根幹にかかわることです。この根幹を見据え、そこに焦点をおいた生き方をする時には、私たちに襲い来る様々な苦悩や危機は、耐え忍ぶことができ乗り越えることができるのです。

「また、自分の十字架を担って私に従わない者は、わたしにふさわしくない。」私たちにとって十字架とは何でしょうか。私たちが神様への信仰に生きようとする時、教会生活をしようとする時、さまざまに困難な出来事に出合います。初代教会や明治期のキリスト者、大戦時の信仰者が負った迫害ほどではないにしても、家族が教会に行くことを理解してくれない。家族のために時間を使いたい。仕事が忙しくて日曜日を確保できない。健康状態が思わしくなく、気持ちがあっても行くことができない。いや、そのさまざまな障害の結果、気持ちがうせてしまっている。すべてその人にとっては重い十字架であろうと思います。出来ればそのような十字架はどこかに放り出して、気楽な気持ちで信仰生活、教会生活を送りたいというのが正直なところかもしれません。ところがイエス様は、その自分の十字架を担いなさいと言われているのです。十字架は負うことが辛いから十字架です。負わないで済むならばそれは十字架ではありません。しかし十字架はそれを負うことによって、イエス様への思い、イエス様との結びつきがもっと深いものになるのだと教えてくださるのです。イエス様も十字架を負われました。出来ればこの盃を取り去ってくださいと祈りつつも、それを負われました。それは私たちのためでした。私たちが負っている十字架を一緒に負うために、イエス様もより重い十字架を負ってくださったのです。自分の十字架に押しつぶされそうな時、もうダメだと思うような時、その十字架の重さはイエス様の十字架の重さとなり、イエス様がそれを負ってくださるのです。

初代教会において、宣教者を受け入れることは、神の国の福音を受け入れることであり、それを受け入れないということは福音そのものを拒絶することで、救われる値打ちがないと考えられていたのかもしれません。福音を拒絶すると罰が与えられるというよりも、福音を拒絶すること自体すでに救いに与ることを拒絶しているのですから、その状態が裁きを受けている状態と言っていいと思います。しかし大切なことは、神様はそれを望んでおられないということです。