2023年5月21日 説教 橋爪大三郎氏 (信徒)

マザー・テレサの隣人愛

使徒言行録 1: 6 – 14、ペトロの手紙一 4: 12 – 14, 5: 6 -11、ヨハネによる福音書 17: 1 – 11

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

今日の福音書の日課は、天の父なる神とイエス・キリストの関係についての箇所です。
イエスは晩餐の席で弟子たちに多くを語りました。そのしめくくりが今日の箇所です。まとめると、

  1. 神はイエスに、すべての人間を支配する権限を与えた。
  2. だからイエスは、すべての人間に、永遠の命を与えることができる。

イエス・キリストが現れたので、人間は、永遠の命が与えられることになった。では、質問。イエス・キリストがいなければ復活せず、永遠の命も与えられないのでしょうか。 ユダヤ教もイスラム教も、イエス・キリストを信じません。では復活しないのか。
まず、ユダヤ教から考えてみましょう。
人間が復活するかしないか。ユダヤ教にはふたつの考え方がありました。ひとつは、復活しないとする考え方。サドカイ人の立場です。旧約聖書には、人間が復活するとは書いてない。だから、復活しない。もうひとつは、復活するとする考え方。パリサイ人の立場です。神は全知全能で、人間に復活しなさいと命じれば復活する。エゼキエルは枯れた骨の谷で、復活の奇蹟をみたではないか。
イエスの時代、ユダヤ教では、復活すると考える人びとのほうが多数派でした。でも復活したら永遠の命を与えられるのか、はっきりしませんでした。
エデンの園には、善悪を知る樹のほかに、生命の樹もありました。その実を食べると、永遠に生きるらしい。旧約聖書には、永遠の命の考え方もあるのです。
ではつぎに、イスラム教。イスラム教では、人間は復活し、永遠の命を与えられるのでしょうか。イエス・キリストがいないのに。復活して、永遠の命が与えられます。アッラーがそう約束しています。クルアーンにそう書いてあります。
イスラム教ではクルアーンを、聖書以上のものと考えます。クルアーンは、天使ジブリル(ガブリエル)がムハンマドの耳元で、囁きかけたアラビア語そのまま。だからクルアーンは、翻訳が許されません。クルアーンは、文字通り「神の言葉」で、神の一部です。クルアーンさえあれば、神と直接につながることができる。教会は必要ありません。
このように考えるなら、クルアーンは、イエス・キリストにあたるものです。
以上をまとめてみましょう。
ユダヤ教は、神ヤハウェを信じます。そして、復活と永遠の命にこだわりません。
キリスト教は、天の父とイエス・キリストを信じ、復活と永遠の命を信じます。
イスラム教は、神アッラーを信じます。そして、復活と永遠の命を信じます。
つぎに、質問。キリスト教は、イエス・キリストを信じるのが正しいと考えます。ではイエス・キリストを信じないユダヤ教、イスラム教は、正しくないのでしょうか。
その昔、宗教が、争いの原因になりました。ヨーロッパでは長い間、ユダヤ人差別が当たり前でした。十字軍は、イスラム教を攻撃しました。宗教戦争では、カトリックとプロテスタントが殺し合いました。そしてナチスは、数百万人のユダヤ人を殺害しました。
いま世界は、「宗教的寛容」を掲げています。宗教的寛容とは、異なる宗教、異なる信仰が仲良く共存しようという目標です。また、「多様性」の尊重も掲げています。LGBTQ+など、どんな個性や文化や信仰をもつ人びとでも、互いを尊重して仲間になろうという目標です。信仰が違っても、差別や対立を生んではならないのです。
イエス・キリストが福音を説き、人びとに復活と永遠の命を約束しました。その教えに従う人びとが、キリスト教。いっぽう、その教えに従わず、イエス・キリストを拒んだ心の頑なな人びとがユダヤ教。--そう、教会では教えてきました。新約聖書にもそう書いてあります。でも、これでは、宗教的寛容や多様性の尊重になりません。
イエス・キリストを信じるのが正しい。だから、イエス・キリストを信じないのは正しくない、は正しいでしょうか。自分の信仰は正しい。だから、相手の信仰は正しくない、は正しいでしょうか。
ここから先は、私の考えです。自分の信仰は正しいから、相手の信仰は正しくない、のではない。自分の信仰は正しいし、相手の信仰も正しい、と考えていいのです。イエス・キリストを信じるのは正しいし、信じないのも正しい、と考えていいのです。
相手の信仰に興味をもち、理解する。それを、自分の喜びとしましょう。ならば、信仰の違いは争いの種にならない。むしろ、喜びの種になります。
マザー・テレサは、インドで活動しました。彼女が助けるのはヒンドゥー教徒。さもなければイスラム教徒です。キリスト教を信じなさい、ではありません。信仰はどうあれ、同じ人間としてあなたを尊重します、です。自分と違った信仰をもつ人びと。それが、マザー・テレサにとっての隣人です。マザー・テレサの生き方こそ、いまの時代にふさわしい隣人愛ではないでしょうか。
神は、すべての人びとを造りました。キリスト教の信仰をもたない人びとも、そうやって造られています。そうしたすべての人びとと共に、神に感謝して生きる。宗教の違いを理解し、争いの種にしない。それが、イエス・キリストが教えた隣人愛だと思うのです。