2023年4月9日 説教 松岡俊一郎牧師

週の初めの朝、喜びの朝

ヨハネによる福音書 20章1節~18節

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イースター、復活祭おめでとうございます。
イースターは主イエス・キリストが死から三日目に蘇られた日を憶える教会の大切な祝日です。イエス・キリストの復活がなければ、キリスト教は存在しないと言っていいと思います。昨年あれほど盛り上がったイースターも今年は控えめです。ディズニーシーではイベントがあるようですが、ディズニーランドもスーパーのイオンもあまり宣伝していません。復活祭はなかなか定着しません。毎年日にちが違うので固定しない、覚えられないという事もありますが、復活そのものが持つ難しさがあります。もっとも商業ベースでは復活の意味などもともとどうでもいいのですが、よく考えてみると復活は人とは無縁の出来事です。死んだ人が復活することなどありえないからです。ユダヤ教の中には復活信仰はありました。イエス様は、ナインという村で若者を生き返らせ、マルタとマリアの兄弟ラザロを復活させ、弟子たちにご自分が復活することは再三言われていました。しかし、人々は復活という事を知っていても、その時には目撃して衝撃を受けても、それが本当にあり得ることだとは誰も信じていなかったのです。それほど死からの復活は人にとってありえないことなのです。しかし教会はこの人にとっては受け入れがたいキリストの復活を宝として伝え続けるのです。

十字架の上で絶命されたイエス様は、アリマタヤ出身のヨセフという議員が遺体を引き取ることをピラトに願い出て、誰もまだ葬られていなかった新しい墓に埋葬しました。マタイによる福音書によると、祭司長や律法学者がローマの総督ピラトのところにきて、イエス様が三日目に復活すると預言していたので見張らせてほしいと願い出て、認められたので番兵をつけて見張らせました。そんな中で、イエス様の復活は起こったのです。

ご存知のようにイエス様が十字架にかかって亡くなったのは、ユダヤ教の安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)の直前でした。安息日には労働を禁じられていましたから、人々はイエス様の亡骸を十字架からおろし、墓に葬るのが精一杯でした。そこで安息日が明けた翌朝、日曜日の朝に、マグダラのマリアと、マルコによる福音書によると、ほかにヤコブの母マリア、サロメという女性たちが、イエス様の遺体に油を塗りに行きます。ところが大人数人がかりでやっと動かすことが出来るような墓石が動かされ、墓が開いていたのです。そこで彼女たちは、墓には入らず、一番弟子のペトロのもとに走って行って「主が墓から取り去られました」と報告します。ペトロともう一人の弟子が墓に行き、ペトロが中に入ると遺体を包んであった亜麻布だけが残されていました。しかし二人の弟子たちも、この時点ではまだ復活を信じていませんでした。墓が空になったことと復活を結びつけることが出来なかったのです。二人の弟子は帰りますが、マグダラのマリアは墓の前にとどまります。彼女が墓の中をのぞくと、遺体の置いてあった場所に白い衣を着た二人の天使がいました。彼らはマリアに「なぜ泣いているのか」と尋ね、マリアが「主が取り去られた」というと、マリアの後ろに復活のイエス様が立っておられたのです。
聖書のこのような証言を聞いても、すぐに納得できるものではありません。それではなぜ教会は復活を宝とし続けるのでしょうか。
それは復活が、弟子たちのイエス様から全人類の救い主メシア、有限から無限の存在になられた真理を表すからです。もし復活がなければ、イエス様は人となられた神様と言われても、そこで出会うのは同時代、同じ土地に暮らしていた人々だけです。弟子たちにとって神様であっても、それはのちの時代の私たちにとっては過去の人、過去の出来事で終わるのです。復活することによって、もはや時と場所を超えた存在となられた。そして弟子たちの救い主から、全人類の、そして現代の、私たちの救い主となられたのです。
もう一つ大切なことは、イエス・キリストが死に勝利されたことです。死は私たちにとって克服することのできない絶対的な壁です。そのために人は死に対して恐れや不安を持ちます。私たちの時間や人生が死に制限されます。それは死に支配されているともいえるかもしれません。しかし、イエス・キリストは復活することによって死に勝利され、死を突き抜け、死を超えた永遠の命を私たちに示してくださいました。その初穂、さきがけとなられたのです。神様の時間軸を、それは人間の時間軸とは違いますが、神の時間軸を示してくださいました。この真理によって死はもはや私たちにとっても絶対的な壁ではなくなったのです。私たちもイエス・キリストの復活を信じることによって、死に塞がれない、死に支配されない永遠の命に生きることが出来るのです。それを復活信仰と言います。この復活信仰によって自由と希望を私たちは手に入れたのです。

復活の喜びは、私たちにとどまりません。女性たちは不安によって、復活を他の弟子に伝えましたが、やがてその不安は喜びへと変えられます。そして聖霊の力をいただくことによって、喜びを伝える者へと変えられるのです。その意味で、教会は復活の喜びを伝える共同体なのです。