神の栄光、イエスの涙
ヨハネによる福音書 11: 1 – 45
今日の福音書の日課は、先々週のサマリアの女の箇所や先週の生まれつき目が見えなかった男が見えるようになった箇所と共にイースターに洗礼を受ける人が学ぶべき場所として相応しい箇所と言われています。これらはそれぞれ長い箇所ですが、イエス様との対話が鍵になっています。
今日の舞台はエルサレムからほど近いベタニアという町です。エルサレムから約3km程度離れていました。そして登場人物のマルタ・マリア・ラザロの兄弟、彼らはすでにイエス様と面識があり親しい関係にありました。同じ名の姉妹はルカによる福音書にも出てきます。ただルカではガリラヤ、ヨハネではベタニアと舞台が違うので、たまたま同じ名前の似た姉妹と考えられますが、福音書記者ヨハネが自分の編集方針によってガリラヤにいる姉妹をイエス様が十字架に付けられたところから近い場所に住んでいることにあえてしたのかもしれません。続いてこの物語が起きた状況です。イエス様はすでにこの時点でユダヤ人たちから明確に命を狙われていました。5章で安息日に歩けない人をいやしたのが大きなきっかけになってしまったのです。なお、ヨハネによる福音書では『ユダヤ』『ユダヤ人』というのは本流である『エルサレム近郊』や『そこに住む人々』のことを指します。ですからイエス様のホームグランドであるガリラヤはユダヤからは外れています。
ヨルダン川の向こう岸・エルサレムから離れたところにいたイエス様のところにマルタたちからの使いがやってきます。マルタたちの兄弟ラザロが病気になってしまったのです。その病気は重く、早く来て治してもらいたい。しかしイエス様はすぐに動きませんでした。確かにエルサレムの近く、ベタニアへ行くのは危険です。今日のすぐ前の10章でも石で撃ち殺されてしまいそうになっているのです。ベタニアで何かユダヤ人たちを刺激するようなことをすれば殺されてしまうからでしょうか?
イエス様は『この病気は死で終わるものではない。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』と言います。これが、イエス様がすぐに動かなかった理由でした。そして2日後にようやく、『もう一度ユダヤに行こう。私たちの友、ラザロが眠っている。起こしに行こう。』と言い、ベタニアへ向かいます。でもベタニアに着いたときにはラザロは死んでおり、墓に入れられてもう四日が経過していたところでした。
町の入り口でイエス様を出迎えたのは姉のマルタでした。彼女は開口一番に『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』と言ってしまいます。大事な時にいてくれなかった、そして最愛の兄弟が亡くなってしまった。マルタは心のつらさ・悲しさをイエス様にぶつけてしまうのです。しかしマルタはこうも続けます。『しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。』『終わりの日の復活の時に復活することは存じております。』『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。』と言います。申し分ない言葉です。ここだけ抜き出して信仰告白の言葉として使ってもいいくらいです。このマルタの優等生の回答、でも何かうわべだけのようにも聞こえます。それは永遠の命の秘密を頭ではわかっているにも関わらず、マルタの心はラザロが死んだつらさから救われていないからです。
家に着いたとき、イエス様を待っていたのは妹のマリアでした。マルタと一緒に出迎えなかったのは怒っていたからでしょう。マリアはマルタと違い良くも悪くも正直です。マリアはイエス様に出会った瞬間にマルタと同じことを言います。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』そしてマリアは泣きます。周りの人も泣いています。イエス様はマルタとマリア、彼女たちを支える多くの人たちに悲しさとつらさを与え、平安と希望を奪った『死』に対して怒ります。イエス様は悲しんでいる人間に対して平静ではいられないのです。そしてイエス様は涙を流します。イエス様自身もラザロの死が悲しくつらいのです。ラザロの死にイエス様の心も動いてしまうのです。
『どこにラザロを葬ったのか?』激しく心が動いているイエス様は『眠っているラザロを起こす』ため墓に向かいます。『その石を取りのけなさい。』墓である洞穴の入り口を閉めている石を動かすよう命じます。マルタは言います。『四日もたっていますから、もうにおいます。』・・・聖書の中ではとてもリアルで生々しい言葉です。もうラザロは死んだんです、終わったんです、だからこのことにはもう構わないでください・・・。そんなマルタにイエス様は答えます。『もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか』付いてきた人々に石を取りのぞかせると、イエスは天を仰いで祈ってから叫びます。『ラザロ、出てきなさい!!』墓の奥から死んだラザロが自分の足で歩いて出てきます。包帯でぐるぐる巻きになったまま、まるでミイラ男のような姿です。当時、遺体を墓に納めるときは、遺体に没薬を塗り、布でくるんで寝かせていたからです。ラザロは布を巻いたままの姿で復活したのです。
ラザロの復活は永遠の命によるものではありませんでした。ラザロはまたいつか死ぬのです。これはイエス様が約束した真の復活ではなく肉体の蘇生です。ただこの復活は色々なものをもたらしました。マリアのところに来てラザロの復活を見た人たちはイエス様を信じました。復活を目撃した者から報告を受けたファイリサイ派はイエス様を殺す決意を更に強く固めましました。
この一連の出来事を通して不思議に思います。イエス様はラザロの病気のことを聞いても2日の間も動きませんでした。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』そしてラザロを復活させてその神の栄光が人々に示されました。まるで栄光を示すためラザロが死ぬまで待っていたかのようです。全てがイエス様の筋書きどおりコントロールされていたのでしょうか?それにも拘わらず、イエス様はラザロの死に対してご自身の心が激しく動くのを抑えることができません。愛する人の死によるつらさや悲しさに涙を流す人を見ては、死に対する憤りを抑えられず、悲しむ人々への共感の涙を流されます。自分で仕掛けておきながら自分で泣いて・・・まるで自作自演のようなイエス様の言動にはどのような秘密があるのでしょう?
イエス様はご自身が神様から来た救い主であることを一貫して示してきました。ご自身を信じるものは永遠の命をいただくことができることを教え、様々な奇跡を通してご自身が人間を超えた存在・神様であることを示されました。同時にイエス様は徹底的に私たち人間と同じ高さに立って共に歩まれました。暑ければ私たちと同じように渇きます。愛する者を失えば同じように苦しみ涙を流されます。『共におられる』ことを何よりも大切にされてきました。100%な神様と100%な人間を完全に両立されたお方。50%/50%ではなくどちらも100%であることがここで示されているのだと思います。もし完全な人間でなかったとすれば、ラザロの死に涙を流さない存在だったとすればどうでしょう?永遠の命というものはわかるけれども、私の今のつらさには関わりのないもの、今の私を救うことはないものになってしまいます。私たちと一緒に泣くお方が備えてくださる命だから、この永遠の命は私たちにとって尊いものになるのです。
イエス様は間もなく『神の栄光』をお受けになります。神の栄光は私たちの理解を超えた十字架による死です。弱々しくみじめな敗北の姿にしか見えない十字架こそが、神の栄光なのです。受難週は来週ですが、弱い人間であるイエス様が受ける十字架の苦しみ、見せかけではない真の苦しみとそれを超えたところにある永遠の命について思いめぐらせる時としてこの一週間を過ごしたいと思います。