新たに生まれ変わる
ヨハネによる福音書 3: 1 – 17
私たちはある程度の年齢になると、自分の人生を振り返ることがあります。そして様々な選択の時に、違う選択をしたらどうなっただろうと思いめぐらします。また、違う境遇であったならば、あのようなことが起こらなかったら、あんなことをしなかったならばと、どちらかというと後悔に近いことが多く沸き起こって来るのではないかと思います。人生は一度きりですから、振り返っても仕方がないのですが、悔やむことが多いのです。しかし大切なことは、今の選択です。どのように人生を歩むか、人生の締めくくりに向かって、何を選択していくのかが大切です。
ある夜に、ファリサイ派に属していたニコデモというユダヤ人の議員がイエス様のところを訪ねてきました。夜に訪ねて来るということ自体、人目を避けてきたことは明らかです。なにしろ、今日の日課の少し前では、イエス様は神殿で商人たちを追い出すという騒動を起こしておられたのですから、当然ユダヤ人やその指導者たちからは目を付けられていたはずです。しかしファリサイ派の中にはイエス様のなさる奇跡を神様の力として信じた人もいたのです。
彼はまず「先生、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行うことはできないからです。」と告白しました。イエス様と敵対する立場のファリサイ派の議員でありながら、自分の立場にとらわれず、神の国を求めてイエス様を訪ねてきています。彼のまじめで正直な人格を感じます。この言葉に対してイエス様はすぐに神の国について語り始められます。それは当時の人々、特にファリサイ派の人々にとって神の国に入ることが一番の関心ごとであったことをイエスさまもご存じだったからです。マタイによる福音書19章16節以下、マルコによる福音書10章17節以下、ルカによる福音書18章18節以下の金持の青年あるいは議員もまた、永遠の命を得るために何が必要かを尋ねています。この場合、永遠の命を得ることと神の国に入ることは同じ意味です。そこでイエス様は答えられます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモはイエス様の言葉を素直に受け止め、「年をとった者が、どうして生まれることが出来ましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることが出来るでしょうか。」と疑問を投げかけます。ここにもニコデモの素直な人柄が感じられます。敵意や嫌みがなく、幼子のような気持ちで困惑しているのです。これに対してイエス様は「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と答えられました。水と霊とによって生まれる。私たちにとってこのことが洗礼を指しているだろうことは、何となく気づきます。洗礼は聖霊による生まれ変わりの出来事だからです。しかし、ニコデモはすぐにそれを悟ることはできませんでした。この後ニコデモがどうしたかは書かれていません。きっと疑問がすっきりとは晴れなかったでしょう。しかしイエス様の心が伝わり、何がしかの満足感を感じながら帰って行ったのではなかったかと思います。彼はこの後二度ヨハネ福音書に登場しますが、一度は一方的にイエス様を責め立てるユダヤ人の同僚たちに対して慎重になるように勧めます。もう一度は、十字架上で亡くなったイエス様をアリマタヤのヨセフが引き取る時、香料を持って来て埋葬の手伝いをします。彼はイエス様が言われることをはっきりとは納得することができませんでしたが、不確かでもやもやした気持ちを持ちながらもイエス様に従って行ったのです。
イエス様は「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われました。風は見えません。しかし人は雲の流れ、木の枝の揺れで風の存在を知ります。もちろん直接肌で感じる時もあります。つまり、それがどこから来てどこに流れるかは分かりませんが、その風のエネルギーや働きによって存在を知ることが出来るのです。新約聖書では「霊」はプシュケーとかプネウマと言います。そしてそれは、風とか息という意味も持っています。天地創造の際にアダムが創造されたとき、神様は土のちりを集め人の形を作り、その鼻に命の息を吹きいれられました。また、エゼキエル書の37章でも、枯れた骨が人の形になり、霊の息が吹きいれられて生きたものになりました。つまり霊は命の根源と考えられるのです。人は霊によって新しく生まれ、神の国を知ることが出来るのです。
それでは、霊によって生きるとはどういうことでしょうか。それは命が神様によって与えられ、今の自分にも豊かな恵みが注がれていることを知り、今の自分の存在を肯定でき、前向きに生きることが出来るということではないでしょうか。今を肯定できるならば、たとえ過去に失敗したことがあっても、不幸を味わったとしても、それらを今の自分の土台とすることが出来るからです。しかし、今を肯定できないならば、今の苦しみや悲しみが、過去の失敗や不幸の積み重ねによってもたらされていると考えてしまい、それまでの人生を否定的にしか考えられず、後悔ばかりで前向きに生きることが出来ないからです。神様の霊、聖霊は私たちを新しく生まれさせ、神の国に招くのです。それは今与えられている命を100%生かすのです。私たちは聖霊の受け皿なのです。
それでは眼に見ることのできない霊は、どのように私たちに働くのでしょうか。聖霊は確かめるものではなく信じるものです。さらに言うならば、信仰によって感じるものだと思います。信仰によって感じると言っても、もちろん皮膚感覚で感じるのではありません。それは皮膚感覚で感じることは確かめることと同じです。そうではなく、信仰によって、私たちの中にある霊的な部分によって聖霊を感じるのです。それは祈りにも共通することですが、心の中心を自分に置くのではなく、神様に明け渡すことによって得られます。自分の考え、自分の知識、自分の判断、自分の決意と、そのように力を込めると、私たちはすぐに信じることを忘れ、確かめることを求めてしまいます。そうではなく、フッと心の力を抜いて身をゆだねる時、神様がわたしたちの心に語りかけてくださる、生活に語りかけてくださる声を聞くのです。亡くなられた井上洋二神父は「聖霊の日差しの中での日向ぼっこ」と言われました。そのためには私たちの霊的な部分が成長し敏感にならなければなりませんから、一朝一夕に出来ることではありません。しかし、心の力を抜いて神様に心を向けることによって、それを繰り返すことによって、聖霊が確かに私たちに働いてくださっていることに気づきますし、そのことによって私たちが現に生かされ力を与えられていることを知り、今の自分を肯定することが出来るのです。