2023年2月19日 説教 松岡俊一郎牧師

私たちのための変容

出エジプト記 24: 12 – 18、マタイによる福音書 17: 1 – 9

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イエス様はナザレでお育ちになり、ガリラヤ湖周辺を生活の拠点とされていました。そこでのイエス様の様子は、他の人々と寸分変わらず目立たない様子だったと思います。
当時、着飾っていたのは祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々だけだったからです。しかしイエス様がガリラヤ湖畔で網の繕いをしていた四人の弟子たちに声をかけられた時、彼らはイエス様に特別な魅力を感じて従いましたので、まったく他の人と変わらないというわけでもなかったかもしれません。しかしそうであっても、彼らはイエス様をラビ(先生)と呼んでいましたので、それほどの違いだったのだろうと思います。しかし今日のイエス様は違います。

今日は変容主日。イエス様が弟子たちの前でその姿が変わり、光り輝いたという出来事を覚える日です。
イエス様はペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネの三人だけを連れて山に登られました。そこでイエス様の姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったのです。旧約聖書の日課では、出エジプトの途中、モーセがシナイ山で神様から十戒の板をいただくために山に登ったことが記されていますが、この後には、神様の栄光を受けてモーセの顔が光り輝いたことが記されています。しかしここではイエス様は自らが輝いておられます。それはイエス様が神としての栄光の輝きをもっておられることを伝えようとしていると思います。それだけでなく、死んだはずの旧約を代表するリーダー、モーセと、天に挙げられた大預言者エリヤが現れてイエス様と語り合っていたのです。モーセはユダヤの民をエジプトから導き出し救った人物です。つまり出エジプトの主人公です。ルカ福音書では彼らがエルサレムで遂げる最後のこと、つまりイエス様の十字架の死について語り合っていたと付け加えています。この「最後のこと」とは「エクソドス」という言葉で「出エジプト」と同じ言葉です。また、大預言者エリヤは生きたまま天に挙げられたと言い伝えられている預言者ですから、このモーセとエリヤが一緒に話していることは人物としてかなったものであり、イエス様の救いの出来事としての死と復活であると考えられます。
さて、それを目撃したペトロは感動して、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、私がここに仮小屋を三つ建てましょう。」と言い出します。仮小屋というのは礼拝所と言っていいでしょう。ペトロはこの栄光の姿に目を奪われ、とどめておきたかったのです。しかしイエス様はこれには何もお答えにならず、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が聞こえ、弟子たちは恐れひれ伏すのです。雲が去った後イエス様だけが元の姿に戻られ、一人だけ残られ、弟子たちに「起きなさい。恐れることはない」と声をかけられます。そして山を下りられるとき、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と口止めされています。

弟子たちはイエス様と寝食を共にし、イエス様の教えを聞き奇跡を目の当たりにしていました。そんな弟子たちでしたが、彼らはイエス様をどのように考えていたでしょうか。特別な人とは思っていたと思います。16章ではフィリポ・カイザリアでペトロに「あなたは私をだれというか」と問われた時。ペトロは「あなたメシア、生ける神の子です」と答え、イエス様に褒められています。しかし弟子たちの様子から見るとどれだけ本当の意味を知っていたかは疑問です。なぜなら、その直後、イエス様が十字架にかかって死ぬと予告をされた時、ペトロはそれを否定して叱られているからです。弟子たちはイエス様の変容の姿に出会って、神の栄光を見ました。しかしそれは表面的な栄光でした。イエス様の真の栄光の姿、輝きの姿は十字架に表されているからです。第二イザヤ53章の苦難の僕では「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」さらにこう言います。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」人は輝きにあこがれ、求めます。輝きの中に神様がおられ輝きこそが尊いと考えます。キリスト教会も様々な宗教もそれを信じ、金の十字架、金の像、金の建物など輝きで表してきました。しかし主の変容の出来事に表された神様の栄光はそこにはありません。神様の栄光はイエス様の十字架と復活にあるのです。それがどんなに人間的にはみすぼらしい愚かな姿であったとしても、神様はそのような仕方で救いと栄光を表されるのです。弟子たちにはまだその真実は隠されています。弟子たちはまだそれが理解できないのです。だから口止めされました。それが理解できるのは、実際にイエス様が十字架に死に、復活され、聖霊が与えられ初めて理解できるのです。

イエス様が変容の姿によって栄光の姿を見せられたのは、復活の姿の予兆です。それは弟子たちが復活のイエス様に出会った時に、ああ、あの山上での姿はこの復活の姿だったと思いださせられるのです。そしてこの変容の姿は、私たちにも示される栄光の姿です。イエス様は貧しい姿で弱い者の友として歩まれました。そこには輝かしい姿はありません。しかしそのようなイエス様こそが栄光を秘めたお方なのです。見た目の輝きではなく、弱い者、貧しいものを慈しみ、その愛を惜しみなく注いでくださるイエス様に真の栄光の姿はあるのです。