2023年2月12日 説教 松岡俊一郎牧師

ゆるしは誰のため

マタイによる福音書 5: 21 – 37

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律法という言葉は、教会以外で聞くことはほとんどありませんが、教会の中ではしばしば登場する言葉です。律法は主にモーセが出エジプトの途中、ホレブ山で神様から直接受けた二枚の石板に書かれた十の戒めです。しかしユダヤ教は十戒を含む創世記から申命記までを律法とし、それに加えて後代の注解(タルムード)と呼ばれる、言い伝え(ミシュナー)その注解(ゲマラ)までも律法として守っていました。その数は大変な分量になっていました。私達が律法と聞くと、イエス様が律法を形式的に守る律法主義を厳しく批判しておられますので、いつの間にか律法までもが悪いものだと感じてしまっています。
しかし、先週の福音書の日課の後半部分、イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない、廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく、すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われています。当時イエス様の周りでは二つの動きがあったことが想像されます。一つには律法学者、ファリサイ派の人々など律法を厳しく守ろうとする人たちです。それらの人々の律法に対する姿勢は、律法を字句通りに、あるいは律法の解説や言い伝えも含めて厳格に守りさえすればよいと考えたのです。そういう人々にとっては、イエス様は律法以外のいろいろなことを言われますので、まるで律法を破壊しようとしているように見え、冒涜しているように思えたのだと思います。もう一つのグループは、初代教会の中にみられるのですが、イエス様は律法から自由になったのだから、律法など守らなくてもいいと考えるようになった人々の存在です。これは中世カトリック教会に反旗を翻したルターの教えを、救いは良き業によって得られるのではないと、功績思想からの解放ととらえ、何をしてもいいんだと主張する、自由をはき違える考えに似ています。これらの二つの考えに対してイエス様は、誤解を解くために「廃止するためではなく、完成するためである。」と言われるのです。確かに律法を言葉通りに守ればそれでいいという考えには反対されます。言葉通りに守るだけでなく、その精神に目を向けるべきと言われるのです。そのために今日の日課であるところの、個別の律法について「あなたがたも聞いているとおり、~である。しかし、私は言っておく」と語られるのです。

律法を厳格に守るようにする人々は、モーセの律法の十戒にある「殺してはならない」に加えて、「人は殺した者は裁きを受ける」と言います。それは裁きを受けるから殺すなとも読めます。つまり自分のためです。イエス様も25節の後半で「さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるに違いない」と言われますから、「そうしないために」と読んでも間違いではないでしょう。しかし、イエス様は他者を「兄弟」と呼ばれています。23節「だから、あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を捧げなさい。」と言われます。マタイ18章では、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言う事を聞き入れたなら、兄弟を得たことになる」と言われています。「兄弟を得る」、これこそがイエス様が大切に考えておられることであり、律法が言おうとしていることではないかと思います。ですから「殺すな」との戒めも、自分が裁かれないためだけではなく、兄弟のいのちを守ることが根底にあるのです。命は神様から与えられたものです。それを人が奪ってはいけないのです。一度奪われたいのちは取り返しがつきません。従って、自分のいのちはもちろん、他者のいのちに対する敬意を持つこと、大切にすること、これが人間を造られた神様の創造の御業に対する取るべき姿勢なのです。しかし現実には命が軽んじられる出来事がはびこっています。犯罪、戦争など命の大切さなど顧みられません。

次は姦淫してはならないという戒めについてです。これもイエス様は律法をもう一歩深めて理解しようとされます。姦淫するだけではなく「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのです」と言われます。その心のありように目を向けられます。そこには女性を性の対象としてだけ、欲望の対象物としてしか見ない姿があります。ユダヤ社会は男性中心でした。出エジプト記20章17節には十戒の戒めの一つとして「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」とあります。ここでは妻を夫の所有物として考えているといえます。しかしイエス様は、隣人の妻が夫の所有物であるがゆえに、それを侵害する、犯してはならないのではなく、神様が造られた女性の存在と人格、尊厳を守るためにこう言われているのです。

続く「離縁してはならない」ということも同様です。当時の離縁は、夫を中心に考えられていました。私たちの国でも以前は「三行半」で妻を離縁する権利が夫にあるとされていました。今はそんなことは許されませんし、仕事を退職した夫がぬれ落ち葉として、妻から離縁を言い渡される時代ですから、その意味では昔の離婚を今の離婚と同じに考えることはできません。ただイエス様はここでは結婚の大切さに目を向けておられます。結婚は夫、妻、両者の合意と約束に対して神様の祝福が与えられるものです。それを一方的に片方によって破棄されるものではないのです。ただ今国会でも話題になっていますが、今日の男性と女性の形態はもっと複雑です。多様化しています。男と女と二つの性と言い切れません。性自認の多様化、いわゆるLGBTQの問題です。またDV家庭内暴力の問題があります。離婚が悪いと言い切れない、命を守るために離婚が必要な場合もあるのです。またひとり親の家庭も少なくありません。事実婚など入籍しない形態もあるのです。しかしどんな場合にもどちらかが大切にされるのでなく、互いに一人一人が大切にされることをイエス様は求めておられるのです。

最後は誓いについてです。律法では「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じていました。ここで具体的に考えられていることは「誓願」だろうと思います。自分の願い事を祈り、それが叶えられるとき満願の供え物を捧げるという具合にです。もっと精神的に考えてもいいかもしれません。しかしイエス様は「誓い」そのものをするなと言われます。イエス様は人の弱さをご存知です。意志の弱さ、迷いなど、私たちは初心を貫くことが出来ません。イエス様はそのような誓いを守れない弱さも知っておられるから神様に対して誓うなと言われるのです。そもそも誓いが必要なのは、完全な信用、信頼関係がないからです。全き信頼関係があるならば、誓いなど必要がないのです。イエス様は誓いが必要でないような全き関係を神様と結びなさいと言われているのです。そこで必要なことは誓いではなく、神様を信じ従う信仰です。

私たちの人生は限られています。その限られた人生をどう生きるかは私たち自身の決断です。それはその瞬間、瞬間に選び取って行かなくてはなりません。様々な状況の中で私は何を選び取り、どのように神に従うかが問われています。