2023年2月5日 説教 松岡俊一郎牧師

世の光として

マタイによる福音書 5: 13 – 20

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新約聖書の時代、イエス様を信じる人はそう多くはなかったと思います。いやむしろわずかであったと言っていいと思います。二匹の魚と五つのパンの奇跡、五千人の給食の奇跡では数千人の規模で描かれており、時には大勢の人が詰めかけて権力者たちを驚かせたことがあったかもしれませんが、実際には貧しい庶民の小さな集まりでしかなかったと思います。今日の福音書が語られた「山上の説教」の時には、確かに大勢の人が集まってきたかもしれません。しかし、場所はすべての中心であったエルサレムから遠く離れた辺境のガリラヤの丘の上です。大都会のエルサレムとは違います。ローマ帝国は地中海全体で絶大な力を誇っており、ユダヤ社会の中ではユダヤ教の宗教的指導者たちが大きな権力をふるっていました。一方、イエス様のもとに集まったガリラヤの人々とは、本当に小さな存在、無名の存在でしかなかったのです。そしてその人々もやがてイエス様が待ち望んだようなメシア、救世主ではないと知ったとき、イエス様の前から去って行き、むしろ時の権力者に迎合していったのです。

しかしイエス様は、そのような貧しい人々、小さく弱い人々、無力な人々、それは理想や信念、信仰に固くたって生きているというよりも、目の前の生活に追われ、時代に流されながら生きている人々。それでも神様に救いを求めている人々に向かって今日のみことばを語っておられるのです。

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」塩はいつの時代も、どの場所であっても貴重なものでした。貴重であったからこそ、それぞれの時代の専売品として扱われ、製造と販売が国営で行われていたのです。イスラエルには塩の海と呼ばれる死海があります。塩分濃度が高く、魚は住むことができず、岸辺は塩の結晶で裸足では入ることができないほどです。塩は調味料として料理の味を引き締めることはもちろん、昔から清めの意味を持っていました。相撲の取り組みの前に関取がまく塩がこれです。また、熱中症予防のために塩飴が有効だと言われるように、身体にも必要なものです。しかし、塩がその役目を果たすのは、塩気があってのことです。塩気がなくなれば何の役にも立たなくなるのです。今の塩は精製の仕方がよく純度が高いものですが、昔の塩は不純物が多かったために時間がたつと塩の効き目がなくなったのかもしれません。

イエス様は民衆に対して、「あなたがたは地の塩である」と言われます。この場合の地とは、この世、人々が生きている社会と言っていいと思います。イエス様は、貧しく小さな民衆を前にして、あなたがたはこの社会において塩の役目を果たすのであると言われているのです。腐敗した社会を清め、生きる力を失った人々に生きる力を与えると言われるのです。
「あなたがたは世の光である」とも言われます。人々はローマの圧政に苦しんでいました。宗教的には律法の厳しい縛りのなかにありました。長年にわたってメシア・救世主の到来が待たれていたということ自体、人々は闇の中にあったことを表しています。そのような闇の中にあって、イエス様は集まった人々に対して「あなたがたは世の光である」と言われるのです。彼らにどれだけその力があったでしょうか。むしろ彼らこそがその光を求めていたのではないでしょうか。だからこそイエス様のもとに集まってきたのではなかったでしょうか。

最後に言われている言葉、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」という言葉を聞くと、イエス様のもとに集まった民衆も、このみ言葉を聞く私たちも、とてもそのような立派な行い、働きはできないと言いたくなってしまいます。
「あなたがたは地の塩である」「世の光である」これらの言葉は、私たちにそうなりなさいと言われているのではありません。すでにイエス様を信じ、神様を信じ従う者はそのような者であると言われているのです。よく例えられることですが、月は自ら光を発していません。太陽の光を受けて、明るく輝いています。そして現代の私たちは、月面の太陽の当たらない部分は暗黒の世界であり、ゴロゴロした岩だらけの世界であることを知っています。しかし、そのような存在であっても、自らが光を発しなくても、照らす太陽の光が強ければ強いほど、周りが暗ければ暗いほど、月は太陽の光を受けて明るく輝くのです。

私たちは自分たちには、先に言われたような、私たちの行いを見て人々が天の父をあがめるようになる力などないことを知っています。しかし、大きな輝きである神様の力、神様の栄光、神様の輝きを忘れてはいないでしょうか。神様は無から有を作り出されるお方です。闇を切り裂き、すべてを照らす光です。そのことを私たちは忘れてはいないでしょうか。イエス様はヨハネ福音書で「わたしは世の光である」と言われています。その光の源である神様が、少しの輝きも生み出すことができない私たちに、イエス様を光として与え、私たちを輝かせてくださるのです。

旧約の日課であるイザヤは預言します。人々は「悔い改めの断食をしながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。」「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて虐げられた人々を解放し、軛をことごとく折ること。さらに、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかに癒される。」さらに「あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は真昼のようになる。」ここには私たちがすべき生活、生き方が具体的に示されているように思います。いや、イエス様ご自身が示された生き方です。私たちの先駆けとなって示してくださいました。ここには社会的な働き、政治権力への姿勢、福祉的な活動、様々です。それは実際には個人で行うには難しいかもしれません。しかし基本は姿勢です。もし個人として難しくても私たちは教会を通してそれを実行することができると思います。力を合わせ知恵を合わせながら教会を通して働くのです。

神様は私たちを輝きの反射板として用いられます。たとえ私たちが曇ったままの反射板であったとしても、とるに足らないほど小さなものであったとしても、神様ご自身が強い光で輝きを与えてくださいます。しかし神様は光としてイエス様を与えてくださいました。イエス様は神様の光として、人々に仕え、自らの命をささげ、暗闇にいる人々を照らし、世の光となられました。私たちはその光に照らされています。そしてその光は私たちを輝かすと同時に、さらなる輝きへと導きます。この光として歩まれた姿の跡を私たちがたどる時、それは一層大きな輝きになるのです。

私たちは今日、2023年度の教会総会を迎えています。この三年間はコロナ禍の中で迷いながら進んできました。最初の年は、コロナの正体がわからず、公開の礼拝を休んだこともありました。教会の大規模改修と重なりましたので、戸惑いは大きかったと思います。しかしその後は礼拝に集中して宣教活動を行ってきました。まだ途上にありますが、この姿勢を続けることが私たちが世の光として輝く道だと信じます。様々な困難を抱えながらも、今年も共に歩んでいきたいと思います。