2023年1月22日 説教 松岡俊一郎牧師

人を通して働く神様

マタイによる福音書 4: 12 – 23

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私には忘れない出来事があります。高校一年生の夏だったと思います。九州では阿蘇山荘というルーテル教会の山荘で高校生キャンプが行われていました。その時の礼拝説教の言葉だったか定かではありませんが、今の藤が丘教会の佐藤和宏先生のお父様、佐藤邦宏先生が、「あなたたちは神様に選ばれた教会のこどもなんだよ」と言われたことが心に残っています。その頃はまだ牧師になろうとは思っていなかったのですが、自分が神様によって選ばれた存在なんだと教えられた衝撃的な言葉でした。それは自分が偉い存在というのではなくて、自分の存在が神様に肯定され、受け入れられていると知った初めての経験でした。

さて、私たちの生きている社会では、生まれて間もない頃から比べられ、選別されるという環境の中で成長していきます。大岡山幼稚園はそうではありませんが、有名私立幼稚園に入るためには「お受験」と称して2歳ぐらいから受験勉強をし、入園試験に臨みます。そこまでしなかったとしても、学校の中ではいつもテストや試験が繰り返され、優劣が決められていくのです。そこではあたかも自分の価値が人によって決められるようです。そんな中で成長していくと、歪んだエリート意識やプライドが身に付いたり、逆に自尊心や自信を持つことができなくなってしまうことがあります。もちろん全部が全部そういう子ばかりではありません。大かたの子はどんな環境でも健全に成長していく子がほとんどだと思います。しかし、中学・高校の先生に伺うと、自尊心や自信を持てない子どもが本当に多いということでした。

さて、今日の福音書の日課は、二つの部分に分かれます。最初は17節で、イエス様が神の国の福音を宣べ伝え始められたという宣言です。後半は、四人の漁師の若者を弟子として召し出される個所です。私たちはこの弟子の召命を当たり前のように読んでいますが、実は大変ユニークであることに気づきます。それは漁師であった青年たちがイエス様に自分を弟子にして下さいと申し出たのではなく、イエス様が彼らをご覧になり、声をかけられているのです。当時は職業の選択の自由があったとは考えられませんから、彼らは代々漁師として、この先もずっと漁師として生きていくはずでした。ガリラヤ湖は静かなところです。風の音、鳥の声、さざ波の音、彼らが網をうつ姿、網を繕う姿は、のどかで変わり映えのしない日常です。ところが突然ふらりと現れたイエス様が「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのです。「人間をとる漁師」たとえ若者たちが漁師であったとしても、「人間をとる」という意味が分かったとは思えません。しかし、その意味が分からなくても、これからどんな生活が待っているか分からなくても、「二人はすぐに網を捨てて従い」、他の二人も「舟と父親を残して」イエス様の後について行ったのです。

四人の若者がガリラヤ湖のほとりで過ごしていた日々と今の私たちが過ごしている生活では、大きな隔たりがあるでしょう。周りの景色や生活習慣は言うに及ばず、時間の速度、情報の多さ、競争、そしてストレス。まさしく全く別世界だと思います。しかしそこに共通するのは、彼らの日常に、そして私たちの日常に突然イエス様のほうからおいでになるということです。何の予告もなく、何の準備もないところに、イエス様はおいでになるのです。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた。」この何気ない言葉に、イエス様の自由を感じます。自由だけでなく、イエス様の内に秘める強さを感じます。このうちに秘める強さ、伝道の生涯を始めるにあったみなぎる意気込みであり、深さであろうと思います。そしてこの内からみなぎる力に動かされて、若者たちはすぐに従ったのです。
従った四人の若者たちには、何の準備もありませんでした。マタイ8章やルカ9章によると、イエス様の招きを躊躇した人たちもいたのです。しかしこの四人の若者は、何のためらいもなく従っているのです。そこにはイエス様のまなざしがありました。このまなざしは多くの人々の中から選び出す選別ではありません。一人一人に一直線に向かう招きでした。彼らは後に「無学な人」「ガリラヤ人」ではないかと蔑視されています。特別な人だから選ばれたのではなく、イエス様の自由の選びの中で招かれているのです。

先ほど申し上げたように、私たちは比べられ、選別されることに慣らされています。しかし、慣らされていながらも、それに翻弄され、不安になり、恐れ、苦しみ、自信を失い、時には自分の存在の意義すら見出すことが出来ず、さまよっています。しかしイエス様のまなざし、招きには、そのようなものは一切ありません。ごくありふれた日常に、ありのままの私に一直線に向けられるのです。そして何の準備もなしに、ありのままの私を神の国の福音の伝達者、弟子とされるのです。この選び、召しは私たちを力づけます。誰からも見向きもされなかった私をイエス様は捉えて離さないのです。弟子達がこの後も決して成長著しくなかったことを私たちは知っています。いつまでも的外れな受け答えしかできず、イエス様に従いきれなかったのです。しかしそうであっても、彼らはイエス様に従い、イエス様も彼らを決して見捨てることをされなかったのです。そして私たちをそのままでいいんだよと受け入れてくださっています。そして宣教の初めに弟子たちを選ばれたことは、彼らをイエス様の手足として遣わされるという事です。イエス様は弟子たちを通して働かれるのです。

イエス様が招かれる福音の伝達者、愛の伝達者に学歴や資格は要りません。信仰があれば十分です。立派に従えなくても、弟子達のようにイエス様の十字架を遠くの物陰からしか見ることが出来なくても、とにかく従う時には、神様は聖霊の力を与えてくださり、私たちをありのままの姿で弟子として用いてくださるのです。神の国の福音は伝え始められました。宣教の始まりです。私たちひとりひとりも、私たちの教会もこの宣教の器として招かれています。応えていきましょう。