2023年1月15日 説教 松岡俊一郎牧師

神の子羊

ヨハネによる福音書 1: 29 -42

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クラシック音楽のミサ曲の中には、「アニュス・デイ」または「アグヌス・デイ」という部分があります。これは「神の小羊」という意味です。今日の福音書でバプテスマのヨハネがイエス様を指して言った言葉「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」からとられた言葉です。このアグヌス・デイは、私たちは聖餐式の中で唱えていますが、キリストに平和を求める祈りで、紀元300年頃から歌い続けられている大変歴史のある祈りの言葉です。礼拝式文の中に入れられたのは7世紀頃と言われています。

この「神の小羊」には四つの意味が考えられます。
第一は、人々の罪を負って苦しんで死ぬ「苦難の僕」です。強い者、立派さに価値を置くこの世界の論理に、真っ向から立ち向かう神様の救いの逆説です。第二イザヤが語ったこの苦難の僕の預言を、キリスト教会はイエス様の十字架上で苦しむ姿と重ね合わせ、イエス様の十字架の死をこの苦難の僕の預言の成就と考えています。
第二には、出エジプト記にある「過ぎ越しの小羊」のことです。ユダヤ人たちが奴隷となっていたエジプトから逃れる時、神様は家の入口の柱や鴨居のところに、小羊の血を塗りなさい、そうすれば災いが通り過ぎると命じられ、ユダヤ人たちには災いが及ばず救われたのです。過ぎ越しの小羊は、ユダヤ人にとっては自分たちは神様によって選ばれた民であるという自尊心と救いの象徴なのです。
第三には、「犠牲の小羊」です。ユダヤ教の礼拝には犠牲の捧げものが欠かせませんでした。その中でも小羊はよく用いられたようです。アブラハムが神様から息子イサクを捧げなさいと命じられた時に、代わりに用いられたのもの羊でした。キリスト教も十字架によって死なれたイエス様を私たちの罪を赦すために犠牲となられた小羊と考えています。
第四には、終末の時に現れて世の悪を取り除く「終末的な小羊」です。ヨハネの黙示録にもしばしばイエス・キリストが贖いの小羊、栄光の小羊として登場します。

今日の個所でバプテスマのヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と二回も繰り返しています。洗礼を授けたのだから知らないはずはないだろうと、ちょっと不思議に思います。しかしヨハネによる福音書は、ヨハネがイエス様に洗礼を授けたという事実には触れていません。もちろん否定しているわけでもありません。ヨハネは、むしろ「わたしの後から一人の人が来られる」と言い、「霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」ことを強調したかったのです。バプテスマのヨハネは独特の風貌で人々に洗礼を授けていましたから、多くの人たちは彼を救い主メシアではないかと考えていました。それを否定するために、自分より後に来られる方が、実は自分の先におられ、その方に聖霊が降ると言っているのです。「先に」というのは時間的なことというよりは、ヨハネ福音書の冒頭にある世の初めから神様と一つであったという意味です。バプテスマのヨハネはイエス様に聖霊が降るのを見て、イエス様を救い主と確信し、イエス様こそが聖霊によって洗礼を授ける方だと確信するのです。だからことさら「知らなかった」と強調するのです。この指摘によって、私達が理解したいのは、イエス様が人として歩まれる人生の中で新しい教えを宣べ、不思議な数々の業を行われたから信じ従うのではなく、神としてこの世に来られ、そのイエス様は聖霊が一つとなっておられたという事です。それがヨハネが指し示している方向です。

バプテスマのヨハネのイエス様を指し示す行動は、その翌日にも続きます。彼はヨハネ自身の弟子たちに、イエス様を「見よ、神の小羊だ。」と言って目を向けさせるのです。弟子たちが「神の小羊」と聞いて、すぐに先の四つのことを連想したかは定かではありません。しかし、弟子たちは師匠であるバプテスマのヨハネに執着するのではなく、指さされたイエス様に従うのです。イエス様についていく行動には何の保証もありませんでした。ただ、弟子たちはヨハネが指し示した言葉に従ったのです。二人の弟子はイエス様がお泊りになるところに泊まりました。そこではイエス様の多くの話を聞いたのでしょう。二人の弟子の内の一人は、後にイエス様の弟子となるシモン・ペトロの兄弟アンデレでしたが、アンデレは後でシモンに「メシア」会ったと言っていますから、話すうちにイエス様をメシアと確信したのでしょう。ちなみにもう一人の弟子は分かりません。そしてこのアンデレもまた兄弟シモンを、イエス様を引き合わせるのです。ここに伝道の姿があるように思います。自分が救い主と確信したならば、自分が従うだけでなく、兄妹家族、友人に伝えているのです。これは今日の福音書の日課の次にある、フィリポとナタナエルの召命の記事でもいえることです。信仰は個人の内心の事柄であると同時に、個人にとどまるのではなく、伝えられるものなのです。シモン・ペトロの召命については、他の共観福音書と記述が違います。他の福音書では、シモン・ペトロとアンデレはガリラヤ湖畔で網の繕いをしている時に、イエス様に「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われて従ったことになっています。しかしヨハネ福音書は、そのエピソードを無視してまで、「福音は伝えられること」を強調したかったのではないでしょうか。最近は、旧統一教会の詐欺的な活動によって、報道は宗教を信じることがあたかも問題であるかのような印象を与えています。しかし、伝統的なキリスト教はもちろん、ほとんどの宗教は内心の自由を保障し、社会的な正しさを保ちながら活動しています。私たちの教会も、私たち自身が信じるだけでなく、救い主を伝える伝道の働きを忘れないようにしたいものです。