2023年1月1日 説教 松岡俊一郎牧師

幼児の試練

マタイによる福音書 2: 13 – 23

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新年あけましておめでとうございます。昨年はコロナ禍という困難な中でも、共に信仰と志す者として礼拝を共にし、歩んでくださったことを感謝しています。そして今年も神様の導きと守りの内に過ごし、教会の使命を全うしていきたいと思います。

今日の福音書の日課は、私たちにとってのクリマス物語の中心は羊飼いと東方の博士たちですから、いわばクリスマスの後日談です。東方の博士たちが帰った後、ヨセフに天使が夢の中でエジプトに逃れるように指示します。そこでヨセフはマリアと幼子を連れてエジプトに逃れます。ここで一つだけ予備知識。クリスマスに登場するヘロデは、イエス様の十字架の時のヘロデ・アンティパスとは別で、アンティパスの父親で「ヘロデ大王」と呼ばれます。さらにこのヘロデ大王は紀元前4年に死んでいますので、クリスマスの出来事はそれ以前となるのです。

東方の博士たちは、ヘロデ大王から新しい王の誕生の場所が分かったならば教えてくれと言われていましたが、彼らもまた夢でヘロデのところに帰るなとのお告げを受けて、別の道を帰っていきました。ヘロデは博士たちが帰ってこないことに怒り、調べておいた新しい王の誕生の場所、ベツレヘム周辺の2歳以下の子どもたちを皆殺しにするのです。この幼児虐殺の事実は確認できませんが、当時のベツレヘムは小さな寒村でしたから、人口も数百人、幼児の数は20~30人と言われています。このお話は衝撃的な話ですが、ヘロデは身内さえも殺すような人でしたから、特別のことではなかったとも言われています。

このお話で重要なことは、次に述べるように「出エジプト」との関連です。モーセの出エジプトです。エジプトの王ファラオは、ヘブライ人の数が増えすぎると男児殺害の命令を出します。その子どもの中にはモーセも含まれていました。ところが助産婦の機転でモーセは生きながらえるのです。つまりヘロデ大王の虐殺はその史実は別として、出エジプトのファラオの幼児虐殺を想起させる出来事なのです。そしてもう一つ大事なことは、今日の日課のエジプトへの避難も幼児虐殺の出来事も、ホセアとエレミヤの預言の成就として語られていることです。さらに聖家族がイスラエルに帰る時、この時も夢のお告げを聞いて、ナザレに帰ります。そしてこれも預言書ではイエス様が「ナザレの人」と呼ばれるのです。当時の人々は申命記18章15節の「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる」という言葉から、モーセの後継者が現れると考えられていました。マタイは、イエス様のお誕生をモーセの新しい後継者、新しい出エジプトのリーダーとして描いているのです。つまりこの一連の出来事が預言の成就として語られていることは、イエス様のお誕生が神様の救いの出来事の始まりであることをマタイは強調しているのです。

クリスマスの出来事は異例ずくめです。未婚の若い女性への受胎告知、馬小屋での出産、羊飼いたちと東方の博士たちの突然の来訪、エジプトへの逃避行。これらの出来事を神様の救いの始まりとすることは、いったいどういう意味があるのでしょうか。私たちにとって救いとは、痛みや苦しみがなくなり、平穏な日々が続くことです。病気の人は病気が癒されたい、貧しい人はこの貧困から抜け出したい、孤独な人は共に心を開いて語り合う人が欲しい、具体的な問題に突き当たっている人は一日もこの問題から解放されたいと願うと思います。ところが聖書はそうは考えていません。人には苦しみはなくならない、時には悲鳴や嗚咽を上げたくなるような悲惨な現実がある、たとえそうだとしても神様の救いはあるというのです。神様の救いは、不幸がなくなることではありません。そのような私たちと共に神様がおられるという真実です。赤ちゃんイエス様は「インマヌエルと呼ばれる」と言われました。「神が共におられる」という意味です。私たちは苦しみの中で「神も仏もあるものか」と嘆きました。しかしそのような時に神様は共におられるという仕方で、私たちの苦しみを引き受け、共に痛み、慰めを与え、励まし続けられるのです。イエス様の生涯すべてがそうでした。病や障がいを持つ人々を癒し、社会から差別されている人に寄り添い、孤独な人の友となられました。そして復活の後、昇天の前に「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださるのです。私たちは苦しみに出会う時、孤独です。誰も助けてくれない。この苦しみを一人で背負わなくてはならない、そう感じています。この孤独さは益々私たちを追い詰めるのです。しかし聖書は、あなたたちはひとりではない、神が共にいてくださると繰り返し語るのです。そしてそれこそが私たちの苦しみを癒し、取り去り、次のステップへと人の背中を押してくださるのです。

新型コロナウィルスは私たちの生活を一変させました。人と人との交わりと結びつきを禁じ、断絶させたのです。学生さんたちにとっては貴重な三年間、友達と友情と思い出を育む三年間のはずでした。それを奪い取ったのです。そして病気で入院している人々、施設で暮らす人々は面会を禁じられ、慰めと励ましの機会を奪い取り、葬儀の時、直葬や家族葬で遺族の悲しみと癒す時さえも奪い取ったのです。これは感染症ということにとどまらず、人の人生や社会に大きな危機と損失をもたらしたと思います。そんな私たちに聖書は何を語るのでしょうか。ここでも「それにもかかわらず」です。そんな私たちと共に神様はおられます。そして私たちの嘆きを聞き、私たちに前に進む勇気を与えられるのです。この勇気は私たち自身の手では生み出すことが出来ません。神様から与えられるのです。このコロナ禍はまだまだ続いています。その苦しみは続きます。しかし神様は私たちから決して離れることはありません。共にいてくださるのです。この真理を信じて新しい年も歩んでいきたいと思います。