ヨセフへのみ子の誕生の告知
マタイによる福音書 1: 18 – 25
数年前に「クリぼっち」という言葉が若者の間で広がりました。クリスマスを一人ぼっちで過ごすこと、つまり彼女、彼氏がいない人のことを指しています。クリスマスにはカップルで過ごす、デートすることが当たり前のように語られるのですが、実はクリぼっちで過ごす人の方が意外に多いのではないかと思います。そしてそれはクリスマスだけではなく、私たちの日常の中でも孤独感を感じている、寂しさの中にいる人は、ずっとずっと多いように思います。一日誰とも会話せずに過ごす人、一人暮らしの人は特にそういう日が多いのではないでしょうか。今日の福音書は、そういう私たちに語られているように思います。
紀元前733年、他国への進出を再開し始めたアッシリアに対抗するために、シリアと北イスラエル王国は同盟を結びます。しかし南ユダ王国はこの同盟に参加しませんでした。そこで、シリアと北王国は、南ユダに傀儡政権を作ろうとしてエルサレムを包囲します。シリア・エフライム戦争と呼ばれるものです。その際に預言者イザヤが南ユダ王国のアハズ王に語ったことばが、今日の旧約聖書の日課です。主御自身がイザヤを通して「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」と言われます。ところが、アハズ王は「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と答えます。一見すると、アハズ王は神様に対して神妙な態度をとっているように見えます。しかし実はこれは神様への信頼を告白したのではなく、神の力を試すような危険な道を取らず、より安全な道、つまり大国アッシリアに支援を求めるという意味なのです。政治的軍事的大国により頼むのではなく、神に信頼せよとの神様の呼び掛けを無視し、現実的な安全策を取ったのです。私たちの国にそっくりです。アハズ王はアッシリアに支援を求めます。しかし結果、アハズ王はアッシリアの神の祭壇をエルサレムの神殿に置くことになってしまいます。(列王下16: 7以下)
さて、そのイザヤの預言の最後に「見よ、おとめが身ごもって、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と書かれています。神御自身が遣わされるメシア救い主です。このメシアはダビデ王家から生れると言われていました。だからこそ、福音書記者マタイは、わざわざ福音書本文の冒頭にイエス・キリストの系図を載せて「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と表題を記し、ヨセフがダビデの家系であることを記しているのです。多くの人は初めて新約聖書を手にとって読み始めても、この系図がちんぷんかんぷんで躓いて読まなくなってしまうのですが、そのような意図があったのです。
今日の福音書の日課の主人公はイエス様の父ヨセフです。ヨセフはイエス様の幼少の時にしかその名前が出てきません。出てきたとしても、イエス様のことを「あれはヨセフの子ではないか」と間接的に、それも批難の材料としてしか登場しませんから、直接の指名で登場するのは貴重です。でもその役割は、イエス様が正真正銘の、正統的なメシアであることを宣言するための布石です。しかし今日はそれ以外に大切な役割を担っています。
母マリアとヨセフは婚約をしていました。ここでもあえて言うならば、マリアに関しては母マリアとされているのに、ヨセフはただヨセフだけです。とことんヨセフがかわいそうになります。しかし今日の日課では脇役と言えども重要な役割を担います。二人は一緒になる前に、マリアが聖霊によって身ごもっていることが分かります。ヨセフはこの時点では、その妊娠が聖霊によるものであることを知りませんので、彼にとっては大ごとです。ヨセフは正しい人でした。この正しさは二重の意味での正しさです。まず律法的に正しいという意味です。結婚する前に妊娠するとは、ユダヤの律法においては姦淫の罪を犯したことであり、死刑に値することでした。そこで彼は律法に従い婚約の破棄を決断するのです。もうひとつの意味での正しさは、憐れみの心をもっているという意味です。だからこそ、マリアのことが表ざたになることを好まず、つまり死刑を回避するためにも、婚約破棄をひそかに行おうとしたのです。しかし、ヨセフのいずれの正しさをも超える事態が分かります。天使が夢に現れて、マリアの妊娠が聖霊によるものであるので安心してマリアを妻として迎えなさいと伝えたのです。さらに天使は重大なことを伝えます。その子どもにイエスと名付けるように命じるのです。イエスとは「神は救う」という意味です。イエスとはヘブライ語読みではヨシュアですから当時としては珍しい名前ではなかったようです。しかし天使はわざわざ「この子は自分の民を罪から救うからである」と付け加えたのです。そしてこのことは、主がイザヤの預言を通して語られたインマヌエル預言の成就となるのです。インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味です。お気づきの方もあるかと思いますが、イエス様が復活をされ、天に上げられる時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。実はマタイがわざわざ系図をもちだしたり、ヨセフを担ぎ出したりしたのも、イエス様が救い主であり、その救い主は、神が共におられるという仕方で救いを実現されたということを伝えたかったからでした。
神が共におられる。これは注目すべき言葉です。それは私たちがあたかも神がいないと思えるような無秩序で悲惨な時代に生きているからです。人と人との結びつきが希薄になり、夫婦・親子・兄妹の間で憎み合いや殺し合いがある、国は人を正しく顧みることをせず、国と国は絶えず利害をめぐって争っている。どの関係をとっても安心できる場所がなくなっている、心を開く相手がいなくなっているのです。激しい戦争、むごたらしい殺戮はこれまでも繰り返されてきたかもしれません。しかし、人間がこれほどまでに孤独を感じる時代はなかったのではないかと思います。日本では自死・自殺を選びとる人の数がここ数年減ったとはいえ2万人を超えています。孤独が社会を覆っています。高齢と言うだけでなく、人と関係を持てずに人生の終焉を迎えなければならない人が多くいるのです。
このような時代に、インマヌエルという名を持ったお方が私たちのところに来られたのです。神様は絶対的なお方です。その絶対者なる神様が主イエスとして、私たちと同じ人としてお生まれになり、私たちと同じように生き、私たちと同じように死を迎えられたのです。しかしそれで終わりとされるのではなく、復活と昇天によって、共におられることを永遠のこととされたのです。このイエス様を私たちの心にお迎えする時、私たちも永遠に神様と共にいるのです。このインマヌエルのイエス様を信じる時、もはや私たちには孤独はありません。このイエス様によって私たちは互いに結びあわされ一つとされているからです。私たちは礼拝の中で「主が共におられるように」「また、あなたと共に」と挨拶を交わします。それは、私たちと共にイエス様がおられ、イエス様によって一つとされていることを確認するのです。
ただ、この真理は人々のところに届いていません。だからこそ、あたかも神様がいないかのように人はさまようのです。クリスマスはすべての喜びの出来事としておとずれました。それは、インマヌエルの主イエスの御降誕だからです。このインマヌエルの真理を人々に伝えようではありませんか。クリスマスはこの真理を伝える伝道の時です。