2022年12月4日 説教 松岡俊一郎牧師

聖霊による洗礼

マタイによる福音書 3: 1 – 12

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今日の旧約聖書の日課には救い主の到来の預言が書かれていますが、その冒頭には「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」とあります。マタイによる福音書の冒頭にはイエス様の系図があり、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。6節には「エッサイはダビデ王をもうけた」とあります。エッサイとはダビデ王の父の名です。しかしダビデ自身がもともとは羊飼いであったように父エッサイも身分が低く、ダビデのことを「エッサイの子」というときは、その身分の低さの意味を込めた言い方でした。指導者のルーツを英雄化し神話化しようとする試みは、人間の歴史の中であらゆるところにみられることですが、しかし聖書は、ユダヤ民族の歴史の中で治世を誇ったダビデ王のルーツを隠すことはしません。むしろそこには神様の大きな働きがあることを証言するのです。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる。」エッサイの株とは、ダビデ王朝のことを言っています。株と言うくらいですから、その王朝はすでに倒れてしまっているのです。しかしそこにひこばえが芽をだします。それがイエス様です。そこには神の霊が注がれているのです。

聖書の時代、民衆はローマの支配の下で貧困と圧政の厳しい生活を余儀なくされていました。そのような中で民衆の間には、自分たちを解放してくれるメシア、救い主を待ち望む機運が高まっていました。そんな時、ヨルダン川のほとりで「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説教し、洗礼を授けていたヨハネがいたのです。人々はその語り口調の力強さ、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べて生活していたヨハネがかもし出す独特の雰囲気に、この人こそメシアではないかと集まってきたのです。
集まってくる群衆の中にひときわ目立つ集団がいました。サドカイ派とファリサイ派の人々です。王族と結びついていたサドカイ派の人々、彼らはアブラハム以来の信仰的伝統を自負していました。また律法の専門家として自分たちは他の人々とは違うという高い気位をもっていたファリサイ派の人々。彼らもまた悔い改めを求めていましたし、徹底的な律法主義を貫いていました。共に一般の民衆とは明らかに身なりが違っていました。彼らも市中でうわさになっている洗礼者ヨハネを見てみようと思ったのか、それとも悔い改めを説く預言者から一応、洗礼を受けておこうと思ったのか、やって来ました。しかし洗礼者ヨハネは、彼らに向って厳しい言葉を投げかけます。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでもアブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」彼らの傲慢な心を打ち砕く言葉です。

なぜヨハネはこれ程までに厳しい言葉を投げかけたのでしょうか。ファリサイ派もサドカイ派も宗教的に厳格なグループでした。しかし彼らにとっての悔い改めの洗礼は、彼らがこれまで持ち続けてきた信仰の伝統と習慣に一つを加えることでしかありませんでした。ファリサイ派についていえば、彼らにとって神の救いは自分たちの信仰的敬虔さ彼ら自身の努力の積み重ねによって実現するのであって、ヨハネの洗礼を求めたのもそれに一つを加えることに過ぎなかったのです。
これはファリサイ派やサドカイ派の人々だけではありません。私達も救いのために自らの力で徳を高めようとする傾向があるのです。人は自分でそれが出来ると無意識のうちに考えているからです。救いは自分の手えられるものではありません。どこまでも神様からの恵みによって与えられるのです。

従って、ヨハネが求めている悔い改めは、神様の前にあって、反省したり、悔やんだりすることではありません。ましてや悔い改めが神様の前に徳を積み重ねることには、絶対にならないのです。むしろそれは悔い改めどころか、神様の前で自分を誇ることに他なりません。サドカイ派にしても、アブラハム以来の信仰的伝統を神様に誇ったところでまったく意味がないのです。ヨハネが言うように、全てを無から創造された神様は石ころからでもアブラハムの子らを生み出されるからです。

洗礼者ヨハネのいう悔い改めとはいったい何だったのでしょうか。
ヨハネは荒野で生活していたことが記されています。荒野とはどんなところでしょう。それは街中での通常の考えや理屈、甘えが通用しない場所です。イエス様も悪魔の試みに会われたのは荒野でした。そこは人の心を裸にするところです。裸にした上で、その人がどこに立つか試みられる場所なのです。ヨハネが求める悔い改めは、そのような場所、もはや自分には何も誇ることも頼ることもないようなところで、神様への信仰を問うのです。悔い改めは、わたしたちの考えや生活を修正するというような生易しいものではないのです。しかし、正直に告白しなければなりません。私たちは自分自身を捨て切れません。あの富める青年がイエス様に「永遠の命を得るためにはどうしたらよいでしょうか」と尋ねた時、イエス様は持てる財産を全て施しなさいと言われ、彼は涙ながらにその場を立ち去らなければならなかったように、私たちも自分を捨てきれないでいます。
イエス様の弟子たちは、イエス様の十字架の前でこの問いを突きつけられました。イエス様が十字架にかかって死ぬという時、自分もまた裁判にかけられ、十字架にかけられるかもしれない、そのときに彼らの信仰は問われたのです。結果、彼らはイエス様を見捨て、散り散りに逃げ惑いました。
このように考えると、わたし達は神様の前にまともに立つことができない、ヨハネが悔い改めよと求めても、その悔い改めさえも出来ない私たちに気がつくのです。
預言者イザヤは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と言います。わたし達はどのようにしたら、それが出来るのでしょうか。

バプテスマのヨハネは、人々が彼のところに集まれば集まるほど、人々が彼のことをメシアではないかと期待すればするほど、彼の心の中には、強い思いが溢れてきました。それは、「自分ではない」と言う事でした。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」と言っているように、自分より後から来られるお方がメシアであり、それがイエス様であることも知っていました。バプテスマのヨハネもまた、来るべき救い主の前では無に等しい自分を知っていたのです。

私達は今クリスマスを待ち望み日々を過ごしていますが、このクリスマスの物語は、私達の通常の思いをはなはだしく裏切ります。もちろんわたし達は既にそれを知っていますので、あまり違和感を持たずにクリスマスを受け止めるのですが、クリスマスのお話に込められている事柄は、実は異例中の異例のことばかりです。常識を覆すことばかりです。次々に逆転が起こります。しかしイザヤの預言の言葉も、それと共通する響きを持ちます。救いの完成の時には、ありえないことが実現するのです。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」

これらの逆転は、出来ない者が成し遂げることが出来るということでもあります。そうです。キリストのために私達が何かをするというのではなく、悔い改めさえまともに出来ない私達のところを目指して救い主が来てくださるのです。道を備えるのも整えるのも、神様がそれをしてくださり、キリストを与えてくださるのです。私達はそれを、ただ喜びをもって受け入れるだけでいいのです。ただここに救いがあることを確信しそれに従って生きるだけでいいのです。