2022年11月27日 説教 鈴木連三氏 (信徒)

どのように待つ?

イザヤ書 2: 1 – 4
ローマの信徒への手紙 13: 11 – 14
マタイによる福音書 24: 36 – 44

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今日から待降節・アドベントです。アドベントの一番初めの日課は伝統的に終末のことが選ばれます。『終末はいつ来るのかわからないので緊張感をもって終末の準備をしていなさい』ということが福音書の日課に書かれています。終末は突然前触れもなくやって来る、事故や災害のようにやって来る、ノアの方舟の話に出てくる大洪水では、人々は大水に飲まれるその瞬間までこのような重大なことが起きることを全く想定しないで普通に暮らしていたといいます。人の子が来るとき=終末も同様で突然やって来るのだと書かれています。

この終末の時には、十字架で死んだ後、復活して天に上られたキリストが栄光のうちに再び地上に来るといわれます。この『人の子が来る時』は裁きの時です。良いものと悪いものは選り分けらます。その日がいつ来てもいいように緊張感をもって過ごし続けなさいと言っているようにみえます。(突然の抜き打ち試験のためにいつも緊張しているのに似ている?)
さて、今日の第2の朗読で使徒パウロはこう語ります。終末は近づいている、もうすぐやって来るといいます。その時のために、『闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。』とパウロは勧めます。また、『品位をもって歩きなさい、主イエス・キリストを身にまといなさい。』とも勧めます。

福音書記者マタイと使徒パウロの間には終末のタイミングについて違いがあります。福音書では『いつ来るかわからない』とあるのに使徒書では『日は近づいた』とあるのです。それはマタイによる福音書が書かれたのは紀元後85年ごろなのに対し、ローマの信徒への手紙はその30年近く前の紀元後58年ごろで、この間に起きた大きな事件が影響していると考えられます。パウロの頃、ユダヤ戦争やローマの大火が起きる前は、終末は早ければ数年のうちにでも来ると思われていました。あと数年もすればキリストが再び来て自分たちをローマの支配から解放してくれるという人々の期待したのでしょう。しかし、ユダヤ戦争で聖都エルサレムは崩落し、ユダヤ民族は離散します。更に、ローマの大火によってキリスト教徒への迫害起こります。数年のうちに世の終わりは来ると思えなくなったのではないでしょうか?

第一の朗読、イザヤ書も終末について語ります。
『主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。』
これは毎年8月の平和主日にも読まれる預言書の言葉です。ニューヨークの国連広場にある『イザヤ・ウォール』と呼ばれる壁にも『非戦・平和』への想いが込めてこの言葉が刻まれています。またイザヤと同じ時代、バビロン捕囚の時代に書かれたミカ書にも載っています。

終末について、今日の福音書からは『裁き』や『緊張感』が前面に出されています。それに対し今日の使徒書や預言書では『世の終わりの裁き』について書かれていますが、『救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。』とか『国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。』という言葉が続きます。世の終わりの裁きよりも神さまの平和が前面に出ています。

結局、終末とは何でしょうか?簡潔に答えるなら、終末は『神の国』『天の国』です。神さまのみ心が叶う世界・神さまの平和が支配する世界が終末です。ここでは剣や槍という人を殺すための道具は不要となり、これらは農業のため、食べ物を作るため、言い換えれば人が生きるための道具に生まれ変わるのです。この神さまの平和が完成する時、その時に主の裁きがあります。そのために私たちは主イエスキリストを身にまとって備えるのです。

ではその終末はいつくるのでしょうか?終末=神の国はこの地上で始まっているけれども、まだ完成していないということです。今は神さまの国ができあがりつつある最中なのです。この世界が神の国になる、神の国に変わる、この大きな変化は神の子キリストが人間の世界に自ら降りてきた瞬間・神さまが人間になった瞬間にスタートしました。クリスマスはこの地上が神の国になる始まりのとき、終末の始まりのときなのです。

となると私たちは終末に向けてどのように備えればよいでしょう?終末とは本来恐れるものではありません。終末は神さまの平和が満ちているところで私たちもそこに招かれているからです。神さまは基本的に『全員合格』を前提としていらっしゃいます。『不合格者』を一人も出さないように最高の先生としてイエス様をこの世に送ってくださるのです。そんな終末のための備えは神さまの平和の中で生きるのにふさわしい生き方をすること、神様の平和を実現することです。ウクライナをはじめ多くの国や地域で行われている戦争や理不尽で暴力的な支配のため、あるいは不公正な社会的・経済的格差のため命を落としたり難民になったりしている人々を支援することが考えられます。また、身近にいる災害に被災した人、重い病気に苦しむ人、家庭の問題に悩む人、孤独で自分の価値を見つけられない人といった平和と安全を求めている人たちのためにも、神様の平和を実現しましょう。行動することはできなくてもできることはあります。今苦しんでいる人々を見ること、知ること、共感すること、そして祈ること、全てが平和を作り出す尊い働きです。愛を必要とする人に寄り添い共感する、これは私たちの世界にお生まれになったイエス様の生き方そのものです。

救い主を待ち迎えるときに求められる神様の平和を実現する働き、これは裁かれるのが怖くてびくびくしながらするようなものではありません。キリストを身にまとった者は体の中から平和を作り出す力が自然に湧いて出てくるのです。これは私たちの力ではありません。平和の主・キリストを知ることによって自然に出てくるようになるのです。今日から始まるアドベント、平和の主を見つめ、愛に生きることができるよう祈る季節として過ごしていきたいと思います。アーメン