求め続ける
ルカによる福音書 18: 1 – 8
今日の福音書の日課のテーマははっきりしています。冒頭に「イエスは、気を落とさず絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。」と福音書記者ルカがことわっているからです。
イエス様の時代のイスラエルでは、夫に先立たれた女性の立場や暮らしは大変貧しく厳しかったようです。本来、モーセの律法には寡婦を含めた弱い立場の人々に対して人道上の保護が定められていました。しかし、イエス様の時代になるとその律法も守られず、寡婦に残された財産をかすめ取ったり、子どもを奪って売りさばいたりされていたようです。ただでも男性中心の社会です。夫も財産も失った寡婦にとって頼りとなるのは子どもだけ、その子どもさえも奪われたとなるなら、生きて行くすべが何もないという状況であったと思います。たとえに出てくる寡婦が裁判官に「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴え出ているのもそのようなことが想定されていたのかもしれません。しかし『神をも畏れず人を人とも思わない』裁判官は、彼もまた公正な裁判が律法に定められていたにもかかわらず、金持ちから賄賂をもらうなどして、金持ちに有利な態度を貫いていたのです。しかしそんな悪辣な裁判官も、愛と正義と良心からは動かなくても、寡婦がしつこく願ってうるさくてたまらないという理由では、動くのです。
イエス様のたとえの目的が裁判官にあるのではないことは明らかです。無慈悲な裁判官でさえ願いを聞くのだから、愛と正義に満ち溢れる父なる神が「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」の願いを聞かれないはずはないと言われるのです。
それでは「選ばれた人たち」とは誰でしょうか。そしてその人たちが何をどうしたのでしょうか。「選ばれた人たち」とは、神様によって何か特別な資格によって選ばれた人たちのことではありません。そうではなく、冒頭で祈ることを教えると言われているように、神様に祈る求める人たちのことです。
先ほどイエス様の時代の寡婦が厳しい生活を強いられていたということを申し上げましたが、私は今の日本のひとり暮らしの方のほうが、場合によってはもっと孤独で厳しい生活を強いられている、あるいはその可能性があるように思うのです。イエス様の時代の寡婦が貧しかったとしても、人間関係の結びつきは今の私たちよりももっと濃密であったのではないでしょうか。日本がかつてそうであったように、家族や親せきが寄り添い支え合って暮らしていたのではないでしょうか。しかし今の時代は「核家族」から「高齢社会」そして「無縁社会」と言われるほど、人と人との結びつきが希薄になってきています。たとえ幾ばくかの蓄えがあったとしても、何日も誰とも口を聞くことなく過ごし、ついには孤独死ということが珍しくなくなってきています。子どもがいたとしても、いなくなった親を探すこともなく、生きているか死んでいるかもわからなくても機械的に生きているとする社会です。このような社会、このような時代のほうが悲惨だと思うのです。さらに言うならば、そのような時代にあっても、私たちは祈りの言葉を知らない、祈りの相手を知らないのではないかということです。
今日の福音書が語られる背景には、初代教会の事情がありました。それは終末の遅延という問題です。すぐにやってくると考えられていた世の終わりがなかなかやってこない、そのような状況の中で教会の中に終末待望の熱意や緊張感がなくなり、キリスト者としてふさわしい生活を求めることへの中だるみが起こっていたのです。そのような人々に注意喚起として気を落とさず熱心に祈ることを求めたのです。
気を落とさず熱心に祈るためには、現状に危機感のないところでは祈りは生まれてきません。さらに相手を知らなくては祈ることはできません。使徒言行録の17章でパウロはアテネのアレオパゴスの丘で「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」と言っていますが、祈ることをしらず、祈る相手を知らない、そしてこのままではどのような将来になるのか分からないという不安と混沌の中にいるのは、実は私たちではないかと思うのです。
イエス様は「選ばれた人たち」は、昼も夜も叫び求めると言われました。イエス様が言われる信仰とは、この叫び、切なる願いに他なりません。18章35節以下では、「ダビデの子イエスよ。わたしを憐れんでください。」とイエス様に向かって叫び求める目の不自由な人を、人々は叱りつけ黙らせようとします。しかし、彼はますます激しく叫び続けました。そしてイエス様は、そのような彼に「あなたの信仰があなたを救った」といわれるのです。信仰とは、ただ教えを学び、それを守って従うことだけではありません。まず、神様の愛と正しさを信じて、そこだけを頼りに祈り求めて行くことです。
祈りには二つの結果があります。「聞かれた」と「聞かれなかった」です。自分の願いどおりになった時には聞かれたと思い、願いどおりにならなかった時には聞かれなかったと思います。しかし、神様は本当に聞かれなかったのでしょうか。聞いたうえで、本当にふさわしいことを用意して下さったのではないでしょうか。イエス様はマタイの山上の説教の中で「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」といわれました。そうです。私たちに必要なことは、祈りによって願い求めることです。その結果は、私たちにふさわしい形で用意してくださるのです。その最初で最上のものが、イエス様の十字架による私たちの罪の贖いです。イエス様は十字架によって、私たちと父なる神様との関係を回復し、私たちが平安に生きる道を用意して下さったのです。このイエス様を信じ、祈り、従う時に、その平安は今の私たちをも包み込むのです。
イエス様は最後に「人の子が来るとき、果たして信仰を見いだすだろうか。」と言われました。この呼びかけに応えるために、気を落とさずに絶えず祈り続けましょう。