2022年10月9日 説教 松岡俊一郎牧師

信仰の力

列王記下 5: 1 – 3, 7 – 15
ルカによる福音書 17: 11 – 19

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旧約聖書の日課には、重い皮膚病を患っていたナアマンというアラムの王の軍司令官が、預言者エリシャによって癒された出来事が記されています。ナアマンは召使いの少女の勧めによって預言者エリシャのところに病をいやしてもらいに行きます。しかしエリシャは家から出てこずに、使いの者をやって、ヨルダン川で七たび身を清めるように命じます。これに対してナアマンは怒ってそこを立ち去ります。彼は預言者が神の名を呼び、患部に手を当て、皮膚病をいやしてくれるものと思っていたのです。ナアマンがまじない的な奇跡を期待していたのに、エリシャはことばだけを与えたのです。しかし、この言葉が大事でした。言葉は神の意志だからです。言葉には命があり、言葉が人に新たな命を与えるからです。このナアマンの怒りに家来たちがなだめます。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」ナアマンはエリシャの態度を無礼と感じたのですが、弟子たちはその真相を見ていたのです。

今日の福音書もまた、重い皮膚病にかかった人の癒しのお話です。律法である旧約聖書レビ記の13章には、重い皮膚病にかかった人たちへの対処について書かれています。皮膚病の度合いは祭司が判断することになっていました。そして重い皮膚病と判断された人は、「あなたは汚れている」と断定されます。隔離されている期間、人が近づいてきたならば、「わたしは汚れた者です。汚れた者です。」と叫ばなければならなかったのです。彼らは、病による苦しみに加えて社会的な差別、宗教的な差別を受けていたのです。人々は怯えと嫌悪の冷たいまなざしを差し向けます。家族や友人であった人々も悲しみと憐れみをもって目をそむけます。大変な屈辱であったことは想像に難くありません。
この10人の人のうち一人はサマリヤ人でした。サマリヤ人はユダヤ人たちから外国人として軽蔑と差別の対象となっていました。しかし、社会から差別されつまはじきにされている人々の間には、国籍や宗教はありません。ただ社会から排除されているという共通の事実だけです。この10人の人たちが、イエス様から遠くはなれて癒しを求めます。するとイエス様は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。律法に従った言葉です。しかしここでイエス様が何か具体的な奇跡の業を行なわれたわけではありませんでした。言葉を与えられただけです。ところが彼らは、祭司のところに行く途中で自分たちが癒されたことに気づくのです。病気の人たちはきっと大喜びで祭司のもとに走ったことでしょう。祭司だけが自分たちの社会復帰、人として生きることをゆるすことが出来たからです。
重い皮膚病を患っていた人たちの一番の願いは、病が一日も早く癒されることでした。そして屈辱の日々から解放され、普通の生活に戻りたかったに違いありません。その意味で、病が癒されたならば、彼らの願いはすべてかなえられ、苦しみの生活すべてが終わるのです。もはや自分が病気であったこと、その屈辱的な日々のことなど思い出したくもなかったかもしれません。すべてを忘れて新しい人生を歩み出したかったのです。ところがサマリヤ人ひとりだけは、病が癒されたと知った時、祭司のもとには向わず、大声で神を賛美し、イエス様のところに戻ったのです。

彼が祭司のところに行かなかったのは、神様の働きを人に確かめてもらう必要がなかったからです。それはサマリヤ人である彼がユダヤ人の律法を守る必要がなかったからだけではありません。人に確かめてもらわなくても、彼自身が気づき、そこに神様の働きを知ったからです。自分が癒されたという事実の中に神様の働きを見たのです。誰からも気にかけてもらえず、あたかも自分が存在していないかのように流れていく世間の日常。自分もまたそんな自分に価値を見出すことができない。そんな彼に神様は働いておられることを彼は知ったのです。これは彼の存在を根底から揺るがす救いの出来事だったのです。

ここで考えたいことは、私達にも神様の働きが日々起こっているということです。私たちは神様の出来事は何か特別な時に、特別な仕方で起こると思っています。だから自分には神様は働いていないと思い、普段何も気に留めないのです。しかし、それは私たちが何か大きなことだけが神様の働きと思っているからです。神様の働きは日々私たちに起こっているのです。私たちはそれに気づかずにいるのです。神様の働きに鈍感になっているのです。鈍感になっていながら、不満ばかり感じているのです。しかし神様は、イエス様が人々から見捨てられた人たちに目を留められたように、いつも私たちに目を向け、働いてくださっているのです。
そしてそのために必要なことは、私たちの日常をイエス様との関係の中で見つめることです。現実の生活と信仰を分けて考え、ウィークデイと日曜日をまるで違う日であるかのように考えてしまうと、私たちに働く神様の御業に気づきません。確かに現実の生活は、いろいろな違うルールや常識で動いているでしょう。しかしそうであっても、私たちの生活にいつもかみさまが働いておられることを見つめたいと思うのです。そのためには、時には静かに黙想し祈る時が必要かもしれません。目の前のことばかり追い求めていると、9人のユダヤ人のように神様の働きを見出せないのです。

もう一つのこと。それはサマリヤ人が感謝するためにイエス様のところに戻ったという点です。ほかの9人のユダヤ人はイエス様のところには戻りませんでした。彼らの目は自分たちが元の一般社会に戻ることしか頭にありませんでした。それが彼らにとっての癒しであり救いだったのです。しかし、サマリヤ人は自分に起こった出来事を神様の恵みの出来事、神様の救いの出来事ととらえたのです。ここに大きな違いがあります。問題が解決すればそれで終わりとするか、その解決が神様の御業による元理解するかの違いです。サマリヤ人は後者の理解をしました。そして感謝するために戻ったのです。彼にとっては病をいやされて終わりではありませんでした。自分が病気であったことを忘れようとするか、癒されたという事実の中に神様の働きを見るかは大きな違いがあります。神様の働きかけを知るほうがどれほど大きな恵み、どれだけ大きな励ましになるでしょうか。
そしてイエス様は、神様の出来事を知り、それを感謝すること、それを信仰と言われるのです。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」それは神様の恵みを一方通行で終わらせるのではなく、神様に感謝の心をお返しするのです。私たちにも言葉を通して神様の働きが与えられます。そして信仰による賛美と応答が期待されています。