2022年9月25日 説教 松岡俊一郎牧師

何に耳を傾けるか

ルカによる福音書 16: 19 – 31

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私たちの社会は、格差社会と言われます。あきらかに貧富の差があります。ひとくくりに格差社会というときには、私たちの心には響きませんが、子どもの貧困、シングルマザーの貧困、子どもが親の介護をするヤングケアラー問題など一つ一つ丁寧に見ていくと、私たちの心に迫ってきます。ただ私たちは小さな存在でしかありませんから、それを変えていく力は残念ながらありません。しかしそのような現実を見続けることは大切なことではないでしょうか。そして小さな努力を始めることが大切だと思います。

19節からのたとえは突然始まっていますが、少し前の14節を見てみると「金に執着するファリサイ派の人びとが、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とありますから、このたとえも、彼らに向って語られていることは間違いないように思います。
19節から22節までは、たとえの序章にあたります。ある金持ちがいました。彼はいつも上等の服を着て贅沢に遊び暮らしていました。彼の家の門の前には、ラザロという皮膚病を患った貧しい人が横たわり、この家の食卓からこぼれ落ちるものでもいいから、それで空腹を満たしたいものだと思っていました。金持ちは門の内側にいて贅沢三昧の暮らしをしている。しかしラザロは門の外にいて極貧の中で生きているのです。この門と壁は世界を隔てています。それはやがて天国と陰府の国との壁となるのです。

やがてこの貧しい人も金持ちも死にました。死は誰にも公平に訪れます。しかしここで逆転が起こります。貧しいラザロは、死んで天使たちによって天国の宴席に招かれ、そこにいる信仰の父アブラハムの傍らに座りました。金持ちはというと、陰府の国で裁きにあい、炎の中でもだえ苦しんでいるのです。彼が天を見上げると、宴席でアブラハムの傍らにいるラザロが見えました。そこで彼は「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先に水を浸し、私の舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」と叫びました。金持ちは生前ラザロに水の少しでも与えたでしょうか。きっと与えたことがなかったに違いありません。ラザロの皮膚をなめていた犬と同じようにしか思っていなかったに違いありません。しかし、ここにいたってもラザロを召し使いのように、水を持ってくるように求めるのです。
アブラハムは「思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」と答えます。ここには、神様の逆転と公平さがあります。金持ちのまわりにはいつも貧しい人たちがいたはずです。彼は少し心を向けるだけで気づいたはずです。しかし、彼は自分のまわりにあたかも貧しい人が存在しないかのように心を向けることなく無視し続け、優雅に暮らしていたのです。しかし、その貧しい人たちは確かに存在したのです。そして神様はその人びとを決して無視されませんでした。マタイ福音書25章でイエス様は言われます。「はっきり言っておく、この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」

物語はさらに展開します。金持ちはアブラハムに言います。「父よ。ではおねがいです。私の父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。」
しかしアブラハムは言います。「お前たちの兄弟にはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」すでに律法の中にその教えが込められている、そこから学べということです。さらに金持ちは言います。「いいえ、もし死んだ者の中から誰かが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」金持ちの言うことも一理あるように思えます。言葉で聞くよりも、誰か死んだ者が復活すれば、きっともっと納得するということです。しかしアブラハムは言います。「もし、モーセや預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返るものがあっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」この最後のことばには、イエス様がご自分の復活を意識されていることは間違いないと思います。つまり主イエスが復活したとしても、聖書の言葉から学ぼうとしないものは、どんなに主の復活があってもそれを信じることはできないということです。考えて見ますと、復活というのは死者のよみがえりです。これは普通では、考えられないことです。普通では考えられないことというのは、受け入れられないということでもあります。ですから、聖書に既に語られている神様のことばを受け入れない者が、死者のよみがえりを受け入れることができるでしょうか。
お金に目がくらんでいたファリサイ派の人たちは、神様から遠く離れていました。先週の日課で「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われているように、どちらを主にするかによって、道は大きく分かれるのです。

私達も富めるキリスト者です。もちろん私たちはここに登場するファリサイ派の人たちのように拝金主義でもお金に溺れてもいないでしょう。また贅沢三昧の暮らしをしているわけでもありません。しかし、私たちは世界の貧困と飢餓に目を向けると間違いなく、豊かな暮らしをしているのです。もちろんそれがすぐに罪悪だということではありません。社会構造がそういう現実を生み出しているのですから、私個人がどうこうできるわけではないのです。ましてや経済的に豊かな者が、すべてのおいて富める者ではありません。豊かな国においてはそれなりの困難と苦悩があるのです。しかし私が富めるキリスト者であるという自己認識と、神様は貧しく弱い者の傍らにおられるという聖書の真理から目をそむけてはならないのです。

それでは私たちが富める者という立場を変えることができないのであれば、私たちは救われることはできないのでしょうか。そうではありません。ここに登場する金持ちはモーセと預言者の言葉に耳を傾けませんでした。もし私たちが同様に聖書の言葉に耳を傾けないならば、この救われることのできなかった金持ちの末路と同じになってしまいます。しかし御言葉に耳を傾け、私たちの生活と生き方を変えるならば、私たちもまた神様のもとにあります。それはイエス・キリストがそうされたように、弱い立場にある人々、困難の中にある人々、貧しい人々、苦しんでいる人々に心を向ける生き方です。イエス様が「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」