2022年9月4日 説教 松岡俊一郎牧師

弟子となる覚悟

ルカによる福音書 14: 25 – 33

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

「こだわり、執着、未練」、あまりいい響きのある言葉ではありませんが、人は多かれ少なかれ、そのようなものをもって生活しています。家族や異性に対する愛情、仕事に対する熱心や責任感、物に対する愛着も、強ければ強いほど、それを断ち切ることは難しいものです。まさにそれらのものが自分の人生、自分そのものと一体となっているからです。そして私たちが生きていくうえで、大きな生きがい、力になりますのでそれらはむしろ必要なものです。しかし、信仰を考えるとき、そこには大きな落とし穴があります。信仰は神様を第一として生きることです。実際の目の前のことが大切だからと言って信仰をわきに置いといて、それらのことを優先させるならば、私たちはいつの間にか、人間関係や社会的な役割、お金や財産が神様になってしまうからです。ここで注意しておかなければならないのは、信仰を今述べた人間関係や社会的な役割、お金や財産と並列に並べて、どれを優先するかと問うその問い方自体が間違っているからです。信仰をいくつかある選択肢の一つとして考えるのではなく、信仰をもって、その信仰のはかりに従って、何を大切にすべきかを考えなければならないからです。

さて、今日の福音書の日課でイエス様は人々に向かって語られます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

何を言い出されるのでしょうか。「憎む」、どきりとすることばです。日本語で憎むというのはショッキングなことばです。ことばはあっても、実際に人を憎む経験をされた方はそう多くはないのではないでしょうか。愛を説き、「父や母を敬え」と書かれている律法の一点一画も廃れることはないと言われたイエス様です。イエス様がそのようなことばを語られるとは、信じがたいことです。しかし、これにはどうやら日本語とヘブライ語の違いがあるようです。一説によれば、ヘブライ語の憎むということばは、日本語で感じるような強い意味でなく、「より少なく愛する」というほどの意味だそうです。口語訳聖書では「捨てる」となっていますし、別の解釈では「背を向ける」とか「身を引き離す」という意味があるそうです。これで少しホッとします。

さてイエス様は続けて、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われます。「自分の十字架」というのは一体何でしょうか。第一義的には、自分が味わっている苦しみ、生活上の課題が考えられます。人は誰でもいろいろな苦しみや課題を背負っています。自分の病気、性格、家族や仕事。そして最近では自然災害が頻発していますから、自然や事故によって脅かされる生活も含まれるでしょう。そして言わずもがなですが、私たちはそのような災難や苦しみを避けたいと思っています。使徒パウロでさえ、三度も自分の「とげ」を取り去ってくださいと願ったと言っています。しかしそんな私たちに対して、イエス様は自分の十字架を負って従いなさいと言われます。自分自身や自分に起こる現実をありのまま受け止め、受け入れなさいと言われるのです。これはたやすいことではありません。
自分の十字架についてもう一つ考えられることは、人間関係の中で考えられます。イエス様も「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹」を挙げられていますから、関係の中で「自分の十字架」を考えることは有益です。人の関係を考えるとき、相手と自分の間に隔たりが存在します。自分が抱く相手の理想像と現実の相手です。自分が思い描く夫像、妻像と現実の夫と妻などです。そこに違いがあると苛立ちが生じます。何十年も夫婦生活を続けていくとそのうちあきらめも生じてきますが、ギャップがなくなるかというとそれはいつまでも続きます。この受け入れがたい自分の理想と実際の相手のギャップが十字架という考え方です。それは現実を受け入れられない姿でもあります。先ほど触れた「自分の十字架」、苦難を背負った自分から目をそむけるのと同じように、人は関係の中でも、相手の現実から目をそむけるのです。これに対してイエス様は、「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎」みなさいと言われるのです。これは人に理想を押し付けている自分や、苦難に目をそむけている自分に背を向け、離れなさい。そして現実の相手と向き合い、現実の自分と向き合って私に従ってきなさいと言われているのです。

なぜなら、イエス様ご自身がそうされたからです。イエス様は理想的な私たちと向き合われ、救われたのではなく、様々な欠点や苦難を背負った私たちと向き合い、その私たちを救うために十字架にかかってくださったからです。
そう考えますと、イエス様が言われていることは、「家族と、あるいは自分の命と私とどちらを選ぶのか」という問いかけのように受け取れます。
イエス様は、この後二つのたとえを用いて語られています。いずれも共通していることは、「まず腰をすえて計算しないものがいるだろうか」「まず腰をすえて考えて見ないだろうか」という部分です。まず立ち止まって考えてみることの必要性が語られます。この腰を据えること、いったん立ち止まることは、実際の自分、実際の相手に目を向けない自分と決別するためにいったん立ち止まるのです。「自分の持ち物を捨てる」とは、物だけを言っておられるのではありません。自分に属する物すべてという意味ですから、自分の思いや自分の夢もいったん脇において、イエス様に従うのです。

しかし、この決別は容易なことではありません。そんな時、弟子たちの姿を見ると、わたしたちの躊躇いや自信喪失に励みを与えてくれます。弟子たちがイエス様の言葉通り、すべてを捨てて従ったわけではないからです。確かに、弟子として召されたとき、漁師であった者たちは網を捨て、両親から離れて従いました。しかし、その後の彼らの言動は弟子として、とても手本になるものではありませんでした。自分が天国で位の高い席に着きたい、イエス様が犯罪人として捕らえられたら、自分自身もその仲間として捕らえられることを恐れ、関係を否定する。そして、十字架の前では逃げるのです。イエス様はそのような弟子たちを赦されました。立派な信仰ではない、むしろ情けないほど弱い信仰しか持ち合わせなかった弟子たちを受け入れ、その弱さを自らの十字架で引き受けてくださったのです。

自分の十字架を負う。それは自分の弱さを負うこと、自分の弱さを誤魔化さない、目を離さないことです。イエス様は私たちの弱さを十分ご存知です。もはやイエス様の前で自分の弱さを隠す必要はありません。すでに私たちの弱さはイエス様の十字架にかかっているのです。
その上で、あらためて私たちに自分の十字架を知ることを求められます。そこからが信仰のスタートだからです。自分の決心や自分の力を頼りにした信仰は、自分自身が崩れた時に崩れます。しかし、自分の弱さを知り、そこに働く神様の力と救いを頼りとする信仰であれば、それは崩れることはありません。むしろパウロが「私は弱いときにこそ強い」というように、神様が私たちの弱さの中で働いてくださるのです。イエス様の弟子としての出発、それは強さからの出発ではなく、弱さからの出発なのです。