2022年8月28日 説教 松岡俊一郎牧師

真のへりくだり

箴言 25: 6 – 7a, ルカによる福音書 14: 1, 7 – 14

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私たちは式典や宴席の時に、上座がどこか気にします。それは多くの場合、そこに座りたいためではなく、上座には誰か偉い人が座るだろうし、自分はそうではないという謙虚な気持ちからそうします。私も目立つのが嫌いですから、出来れば隅っこの方に座りたいのですが、礼拝の時だけは牧師ですから、前に立たざるを得ません。私が事務局長になった時、式典などでいつも一番前の席とか特別な席に案内されて、とても居心地が悪かったことを思い出します。しかし、中には上座に座りたい人もいると思います。それが役目だと割り切っておられる方もいると思いますが、特別な席に案内されないと不機嫌になる人もいるのです。

今日の旧約聖書の日課の中で箴言は、「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも、上座に着くようにと言われる方がよい。」と伝えています。人の前でどんな存在であれ、神様の前で人の持つ物を誇ることは空しい、むしろ神様を知り、その前でへりくだった者であることが誇るべきことなのです。ところが現実はそうではありません。一般的には、財産や権力をもち、社会的地位の高い人が尊敬を集め、大切にされるのです。

イエス様は、ファリサイ派の議員の家の食事に招かれておられました。ファリサイ派の議員は、当時は力のある人たちでしたから、そこに招かれていた人もお金持ちであり、社会的に地位の高い人が多かったに違いありません。ちなみにマタイ福音書23章5節以下には律法学者やファリサイ派の人々についてこう書かれています。「すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。」今日の日課に登場する人びとも、上座を選んで座っていたのです。その様子を見てイエス様は、「婚宴に招待されたら、上座についてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。その時、あなたは恥をかいて末席につくことになる」と言われました。ここで言われていることは、ただ恥をかかないようにしなさいという処世術的なことではありません。また「上席に座る」ということも、ただ場所のことを言っているのではありません。上席を好むという姿に潜む、人がもっている権力や力への憧れや欲望について語っておられるのです。そこには思い上がりと自慢と傲慢が付きまとうからです。神様はそれらのことを嫌われます。そこには罪の片鱗がみられるからです。

人は本来弱い存在です。弱い存在であるからこそ、自分を強く見せたがり、強いものに憧れ、時にはこびへつらい、地位や力、権力や財力を手に入れようとします。私たちの毎日の営みのある部分は、そのために気持ちが割かれ、それが目的となっている時があります。私たちは関係の中で生き、社会がそのような仕組みを作っていますから、それを単純に避けようとすると無人島か山の中に暮らすしかありません。その意味で、ある程度その流れに巻き込まれてしまうのはやむを得ないことです。しかし私たちの生活と命の最終的な目的がそこにあるとするのなら、人生の価値をそこに置くとするならば、イエス様のことばによって眼を覚まさせていただかなくてはなりません。

自分を強く見せたところで、権力や財力で人の上に立ち、人を支配しようとしたところで、人が弱い存在であることは少しも変わりません。確かに権力や財力は私たちの目の前の生活を、ある瞬間は満足させ豊かにするかもしれません。しかし、それが続く保障はどこにもありませんし、安らぎもそこにはありません。権力や財力はいつも脅かされるからです。そしてそれ自身が本当に私たちを幸せにするかというと、そうではないのです。それらはむしろ私たちの心の上着でしかありません。それをよりどころとして、それらに立って生きようとするとき、これほどもろく、危ういものはないのです。

イエス様は、私たちが神様の前でどのように生きるかを見ておられます。私たちが手に入れようとしている力や財力は、神様の前では何の力も持ちませんし、関係もありません。パウロも回心前はそれらのものを求めて必死になっていました。しかし復活のイエス様に出会ってからは、それらのものがいかにつまらないものであったか、不必要なものであったかを、フィリピ3章5~8節で次のように言っています。
「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」

聖書は私たちの考える力と強さとはまったく違うところに価値を置いています。聖書が価値を置くところは、「へりくだり」です。へりくだりの中に神様の愛と慈しみがあり、へりくだりの中に神様の働く場所があるからです。パウロはその「へりくだり」の究極の手本としてキリストの姿を描いています。ピリピ2:6-9「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」

「へりくだり」は人の目には弱さに映ります。しかしパウロは「わたしは弱いときにこそ強いからです」と言います。この逆説は、神様の力が私たちの弱さの中で働くことを知っているから言えることばです。イエス様もまた「偉くなりたいと思う者は、かえって仕える者になりなさい」と言われ、仕えることに価値を置かれています。

先のイエス様の話を処世術的に捉えるとしたら、「そのとき、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。~へりくだる者は高められる」という言葉も、報いを期待した「へりくだり」といえるでしょう。そこでは人びとの賞賛があるからです。しかし、聖書が言う「へりくだり」に対する報いは、人びとから与えられるものではありません。神様から与えられるものです。
日課の後半には、誰を招くかというお話が書かれています。ここで言われていることは、お返しができない人を招きなさい。そうすれば、正しい者たちが復活する時、つまり神の国において、神様から報いが与えられるといわれるのです。
私たちが求めるべき報酬は、この世におけるかりそめの報酬ではなく、神様の前でいただく永遠の命なのです。この世的な報酬、報いを期待せず、神様からいただくものを待つ、この世的な報酬や報いを期待しないという事は、それらのものから私たちが解放され自由になるということでもあります。思い煩いやしがらみから自由になるというだけで、私たちはどれほどすがすがしい気持ちで生きることが出来るでしょうか。この自由になることが私たちにとって救いとなるのです。