2022年8月21日 説教 鈴木亮二氏 (信徒)

安息日は喜びの日

ルカによる福音書 13: 10 – 17

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今日の福音書には、イエス様とユダヤ人との間でなされた安息日についての論争が描かれています。安息日についての論争は、福音書の中で数多く取り上げられています。同じ伝承を題材にしているものもありますが、マタイによる福音書では2か所、マルコによる福音書では3か所、ヨハネによる福音書では2か所、そしてルカによる福音書ではもっとも多く今日の箇所も含めて5か所あります。そして論争は大きく分けると2種類、イエス様の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べたこととイエス様が安息日になさった癒しの業が律法に違反しているのか違反していないのか、です。

安息日は、創世記2: 1-3の記述「天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」を起源としています。これを基にして安息日が人々の規範となったのは、出エジプト記にあるモーセの十戒、出エジプト記20: 8-11です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」神様が天地創造の働きをされたときに、6日間ですべての創造の業を終え7日目に休まれたことから、私たち人間は週の初めから6日間労働した後7日目の日にはすべての仕事をやめ、他の日と区別するようにと定められました。

律法では安息日に仕事をすることは禁止されていました。しかしいくつかの例外はありました。たとえば人の命に係わる緊急性が必要な医療行為、家畜の世話のような休むことができないこと、また割礼を施すことも許されていたそうです。安息日に会堂で腰の曲がった婦人を癒したイエス様を見て、会堂長は腹を立てて「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」と言います。会堂長はイエス様の癒しを「通常の仕事」であるとみなし、安息日に禁止されていることとしてイエス様に対して腹を立てました。癒すのであれば安息日ではない他の6日の内にしろ、と言っていますので、イエス様の癒しは緊急性を要する医療行為ではないと考えたのです。

聖書には、婦人は「18年間も病の霊に取りつかれている」と書かれています。癒しを安息日の翌日、一日延ばしたところで構わないじゃないか、というのが会堂長の言い分です。18年はざっと数えて6千日。それが1日くらい後になってもいいんじゃないのと言います。皆さんはどう考えるでしょうか。病気はつらいけれど今日は安息日、すぐに死ぬというものでもないから直してもらえなくても仕方がないと思うかもしれません。
イエス様が癒しの業を行うとき、そのきっかけは、(1)本人が癒してくださいとお願いする、(2)家族や知り合いがこの人を癒してくださいとお願いする、(3)イエス様が自発的に癒しを行う、という3つのパターンがあります。安息日に行われた癒しの業は、すべて3番目のイエス様からの働きかけで行われたものです。1番目、2番目がないのは、癒しという「仕事」は安息日にはお願いできないという気持ちが働いていたからかもしれません。

法律には「何々しなさい」という文章と「何々してはいけない」という文章の2種類があります。これらふたつの文章で、頭に残るのはどちらの書き方でしょう。たとえば子どもが親から、「おやつはこれを食べなさい」と言われるのと、「おやつにこれは食べてはいけません」と言われるのでは、否定形で言われる方が頭に残るのではないでしょうか。十戒を思い出してみると、10の戒めの中で「何々しなさい」という形のものは「安息日を覚えて聖としなさい」という戒めと「あなたの父と母を敬いなさい」という戒めのふたつだけで、残りの8つはすべて「~してはならない」という否定形の書き方になっています。十戒が頭の中に残りやすいのは、このように否定形の文章が多いこともあるためかもしれません。

果たしてイエス様が安息日に行った癒しの業は、律法に違反していたのでしょうか。それとも違反していなかったのでしょうか。もう一度安息日に求められていることを整理してみましょう。モーセの十戒をもう一度思い出してみましょう。ここに書かれていることは、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」ということと「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」ということのふたつです。ユダヤ人の会堂長は、ふたつの内の否定形で書かれている「安息日はいかなる仕事もしてはいけない」ということが律法として大切なことだ、と考えていたようです。
ところが、十戒の安息日の部分をよく見ると、否定形で書かれている「いかなる仕事もしてはならない」というのは「主の安息日であるから」という前提条件が付いているのです。簡潔に言えば「安息日だから仕事はするな」ということです。つまり「仕事はするな」というのは「安息日だから」ということの従属事象であるということです。大切なことは「安息日を心に留め、これを聖別せよ」の方であり、安息日にはこれを聖別することに集中するために仕事はするなということです。

「安息日を心に留めて聖別する」というのはどういうことでしょうか。神様は天地のすべてを6日間で創造されて7日目に休まれました。私たちも6日間の創造という仕事にならって6日間仕事をし、神様が休まれた7日目にすべてを創造された神様を覚えて賛美するということなのです。この世界を創造された神様に喜びをもって感謝を奉げるのです。ユダヤ教では週の7日目の土曜日が安息日に定められていますが、キリスト教では週の初めの日曜日に礼拝をもっています。これは、私たちのすべての罪を背負って十字架に架かられたイエス様が週の初めの日曜日に復活されたことを心に留めて、その喜びを、感謝をもって賛美するためです。

18年の間病の霊に取りつかれ、腰を伸ばすことができなかった婦人は、安息日にイエス様に癒されました。それまで曲がった腰でうつむいた状態で神様に癒しを願って祈ることしかできなかった彼女は、腰をまっすぐに伸ばして神様に賛美を奉げることができるようになったのです。

私は青年のときに「教会音楽セミナー」という講習会に参加したことがあります。ある講座で先生が「皆さんは礼拝の祝福のときに頭を下げて祝福を受けますか?私はそれだと神様の祝福が頭の上を素通りしていってしまうような気がするので、頭を上げて全身で祝福を受けています。」という話を今でも覚えています。イエス様に癒されて腰を伸ばすことができるようになった婦人は、頭を上げてまっすぐに立ち賛美したに違いありません。すべてを創造された神様を、このように喜びをもって賛美できるように、イエス様は安息日にこの婦人を癒されたのです。