2022年7月31日 説教 鈴木連三氏 (信徒)

空しくない

コヘレトの言葉 1: 2, 12 – 14, 2: 18 – 23
ルカによる福音書 12: 13 – 21

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今日の旧約聖書の日課は『コヘレトの言葉』から読まれています。『全ては空しい』・・・あまり聖書の言葉らしくないこのネガティブな言葉はとても印象的です。普段の旧約聖書の日課ではあまり読まれない、どちらかといえばなじみが薄いこのコヘレトの言葉は、全体的に聖書っぽくない虚無的な言葉が多いのです。少し冷めたような言葉が目立つコヘレトの言葉、それと今日の福音書は同じテーマを扱っています。


ある人が兄弟と遺産のことで争っていました。その人がイエス様のところにきて訴えます。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように言ってやってください。』訴えに対してイエス様の返事はつれないものでした。『だれがわたしをあなたの裁判官や調停人にしたのか?』イエス様はそれを拒み、今日のたとえ話をはじめます。
『ある金持ちの人の畑が豊作になった。とれたものは自分の倉にしまいきれない程だった。』『そうだ、もっと大きな倉を建て、その蓄えによって左うちわで過ごそう。』でも神様はこれを見て言います。『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。』金持ちは多くの財産を手の中に納めておきながら、神様によって突然に人生を終了させられてしまったのです。命をあっさりとあっけなく失いました。せっかく蓄えた富を味わうことなく人生を終えてしまったのです。
なお、この箇所は収穫できたものを他の収穫できなかった人に分けてあげなかった、人間どうしで神様から与えられたものをシェアしないで自分だけのための蓄えに回した、そのことを神様は怒り、罰として命を奪ったのだと解釈されることがあります。でも、今日の礼拝の中では神と人の関係性をテーマとして捉えるべきと考えます。なぜなら、先週の日課は主の祈りと『神に祈るときには』・・・神様に向き合うときの心構えがテーマでしたし、来週が平和主日として守られない場合は『目を覚ましていなさい』・・・いつ世の終わりが来てもいいような神様を待つ姿勢がテーマとなっているからです。つまり、今日の箇所を含めたこれら一連のルカによる福音書の箇所からは、神様と人間の関係、神様に向かうときの人間の気持ちを今日は学びたいと思います。

ではなぜイエス様は富に対して否定的なのでしょうか?富については何通りかの理解があります。まず富そのものが罪という考え方。富を追い求めること、大罪のひとつである貪欲を捨てて、貧しく質素に生きようということです。貧しいことは美しく、富めることは醜い、清貧生活を求める考えです。
反対に、物や富は神からの祝福であり信仰の結果であるという考え方もあります。『アブラハムは神を信じた。神はアブラハムを祝福した。』旧約聖書の創世記に出てくる重要人物・アブラハム、彼は神様にあらわした信頼・信仰のゆえに神様から土地、財産、子孫を与えられると約束されました。また改革派のカルバンの教えは『勤労の結果としての富を蓄財しても良い』と言えるものでした。
確かに質素な暮らし、清貧を心がけることは良いことかもしれません。ですがそれを追及し、そのこと自身に喜びを感じる生き方は何かボタンが掛け違っているように感じます。また、富を神様からの祝福として感謝して大切にすること。このことに問題ありませんが、与えられた者=富める者が善、与えられなかった者=貧しい者が悪といったように、目に見える富という形の祝福が神様の御心の全てだと誤って判断してしまう落とし穴がここにはあります。

さて、今日のイエス様の教えは『自分のために富を積んでも神様の前では豊かではない。』でした。なぜ自分で富を積み上げることが良しとされないのでしょうか?富のどこが悪いのでしょうか?イエス様の答えは明確です。富に頼ること=神様以外に頼ることをイエス様は戒めているのです。神様が与える富そのものは悪ではないが、富は往々にして信仰の足かせになるというのです。イエス様が空しいものとして指摘するのは富そのものではなく、自分で蓄えた富に頼る生き方です。苦しいときに支えてくださる神様のことを忘れ、人間の力でうまくやっていこう、自分の力だけで乗り越えられると思いこむことです。人間の無力さや限界から目を背け、神様を必要としないで生きる者は、命の終わりに面した時に自分が頼りにしてきたものがなんと空しいものだったのかを思い知ることになる。たとえ話を通してイエス様はそう言いました。

今日の箇所を読んでいるとき、わたしはある古い知り合いのことが頭に浮かびました。彼は努力して様々な資格を取り、ヘッドハントによって次々とキャリアアップを果たし、収入を上げることに成功していました。家や車をその都度買い替え、世に言うグレードアップを重ねていました。彼は自分の努力で成功を手に入れていました。でも、その陰で、お子さんが幼稚園児だった頃から、家族の人たちは夜に書斎にこもって勉強する彼を気遣って息をひそめて過ごさなければいけなかったと聞きました。また、がんばりさえすれば、少しは名のある学校に入れるだろうという彼からの重圧にお子さんは大変苦しみ、心に傷を負っていたことも聞いていました。そのお子さんが、二十歳を超えたころに亡くなったという知らせを聞いたとき、わたしは大変ショックを受けました。
彼と久しぶりに会ったのはその葬儀のときでした。同級生たちが集まった小さいお葬式のあと、何となく去りがたくその場に残っていたわたしに彼は不意に話しかけてきました。『鈴木さん、キリスト教ではこういうことが起きた時はどのように考えるものなのでしょうか?こんなことが起きたのは本当にわたしの力が足りなかったからだと思う。もっと何かしてやれた。もっと違うことができた。自分に足りないものがあったことが本当に悔やまれます。』
『いいえ、そこが違っているんです。』打ちひしがれている人にそこまでストレートには言えませんでしたが、わたしは彼の言葉を否定しました。自分がもっとできた。自分の力で防ぐことができた。そう思っているうちは、まだまだなのです。起きてしまったこと、自分には理解できない・納得できないけれども起こってしまったこと、それをそのまま受け入れる。み心として受け止め、自分の力が及ばないことは、委ねてしまう。このような発想・姿勢が無ければ、彼はわたしへの問いの答えを理解することはできないでしょう。そして、今までと同じ生き方をこれからも続けることになるのでしょう。

この世に蓄えられた富は空しく、人間には限界があり無力です。わたしたちがそれを認め、受け入れることをイエス様は求めます。このことを『結局、最後には思い通りにならない、すべては無駄だ。』とあきらめ人として生きる努力をやめる必要はありません。自分の無力さに行き着いたとき、失望して全てを空しく放り投げなくてよいのです。放り投げるのではなく、頼りがいのある方に委ねて自分の重荷を下ろせるのがキリスト者の生き方なのです。
先週の日課では、イエス様は『しつこく祈りなさい。』と言いました。自分の力が及ばない時ほど何度も何度も祈りなさいといいます。全てを空しくあきらめ放棄するのではなく、安心して神様に委ね、み心が行われるのを期待して待つのです。祈りに対する神様からの応答がわたしたちの思い描いたものと違っても、神様が一番良いものとして選んだ答えを平安のうちに受けることができるのです。これは決して空しいことではありません。空しくなんかないのです。