2022年7月24日 説教 松岡俊一郎牧師

求めるときは、神様に心を向けるとき

創世記 18: 16 – 32
ルカによる福音書 11: 1 – 13

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私たちは多くの場合、助けてもらいたいという思いでお祈りをします。まさに「苦しい時の神頼み」です。それは正直な思いですし現実です。しかし残念ながら、その願いは必ずしも聞かれるとは限りません。いやむしろ聞かれないと感じるときの方が多いと思います。もし、私たちが願うことがすべて聞かれるとするならば、それはまるで祈りが注文書や自動販売機になってしまうのです。祈りが聞かれなければいけないと思うならば、それは人が神様の心を支配していることになります。祈りはそのようなものではありません。そうではなく、神様と私たちをつなぐものです。神に祈るとは、神様を相手にする心の交流です。もっと言えば、霊的な交流と言ってよいと思います。もし祈る相手がいないならばどうでしょうか。私たちはどんなときにも孤独を強いられ、すべてのことが自分の責任になるのです。しかし神様に祈ることによって私たちは何にもまして大きな相手を得ることになります。祈る相手がいることの喜びです。
そのために、結果がどうであれ、その結果を受け入れることが大事です。聞かれないことがあっても、「神も仏もあるものか」、と祈る相手を失うのではなく、聞かれなくても祈り続けことが大切です。それはあたかも子どもが親の愛情を確認するように繰り返すのです。

繰り返し祈るとどうなるでしょうか。聖書は人の祈りによって神様の心を動かすことができると教えています。今日の旧約聖書の日課と福音書の日課です。創世記18: 16 – 32では、アブラハムがソドムとゴモラという罪深い町が滅ぼされないように、お怒りにならないようにと言いつつも、まるで交渉しているかのように神様にソドムを助けるようにとりなすのです。ルカによる福音書11: 5 – 8では、イエス様はもっとストレートにしつこく願うようにと勧めておられます。最初に私は神様の心を支配することはできないと申し上げました。神様の心を変えていただくのは支配とは違います。支配は相手の心を無視します。そうではなく、神様は祈りによって自ら心を変えてくださり、それが許されるのです。それは初めから決まっているからもうどうにもならないというのではなく、神様と人との関係が生きた関係だからこそ神様はご自分の心を変えてくださるのです。
その意味で私たちが助けてほしいと祈ること、このようになってほしいと祈ることができるのです。願いと祈りのある所に人は心を向けるからです。神様に祈るのは神様を信頼しているからにほかなりません。信頼のないところでは願いは起こらないからです。しかしだからと言って、願うだけではいけません。心を通わす関係ですからそこには感謝が必要なのです。
このように神様は私たちの願いを聞いてくださり、心をとめてくださり、最善の方法で働いてくださいます。神様は聖霊を通して働かれます。願いつつ、祈りつつも、聖霊に身をゆだねてその働きを待つのです。

さて、日課の順序とは前後しますが、そのような祈りの意味を考えながら主の祈りについて考えたいと思います。
まず考えたいことは、主の祈りは共同体の祈りであるということです。私たちは祈る時には一人で祈ることが多いと思います。もちろん家族や教会で祈ることは多いですが、誰にも打ち明けられないような悩みは一人で祈るしかありません。またイエス様も祈る時には偽善者のように人に見てもらおうとして祈るのではなく、密室での祈りを勧めておられます。しかし私の祈りは、「わたしたち」の祈りでもあるのです。主の祈りの言葉は「わたしたち」と繰り返されています。そして主の祈りが弟子たちに与えられた祈りであるように、弟子たちの共同体、教会の祈りなのです。
主の祈りはまず「天の父よ」という言葉で始まります。この天の父という意味は、空高くあるいは宇宙のはるかかなたのことではありません。人の存在と思いを超えたお方、手の届かないお方であること意味します。その意味で「天の父よ」と祈る時、私たちは神様をすべてを超えたお方である証言しているのです。つまりその呼びかけそのものが信仰告白と言ってよいと思います。
次に、「御国が来ますように」と祈ります。これは神の御支配の実現を祈る言葉です。私たちの周りではコロナで苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。ウクライナでは悲惨な戦争が続いています。テロは頻発し、犯罪も後を絶ちません。私たちの現実世界は神の国とは程遠いように思います。しかし聖書は、イエス様の到来によって神の国はすでに来たと教えます。神の救いはキリストの十字架と復活によって完成しているのです。しかし、私たちにはその実感はありませんし、見えません。だからこそ、御国の完成、神様の支配を見せてくださいと願うのです。

主の祈りのもう一つの特徴は、主の祈りが個人の祈りにとどまらず、他者への祈り、世界の平和を求める祈りとなっていることです。「必要な糧」とは、食事のことだけではなく、私たちが平和に暮らす、生きるために必要なものをいいます。私たちの国は食事がいただけない人はまれで、飽食で満ちていますが、世界では多くの人々が飢餓と貧困で苦しんでいます。生きるために必要なものが与えられないでいるのです。主の祈りは私たちの目をそのような人々に向け、見知らぬ人々にも「必要な糧」が毎日与えられるように祈るのです。そしてイエス様が良きサマリア人のたとえで言われたように「あなたも行って同じようにしなさい」との言葉に聞き従いたいと思うのです。
主の祈りで多くの人が躓くのが「負い目のある人を皆ゆるしますから」という言葉です。私が赦したから神様わたしたちの罪をゆるしてくださいと祈るからです。あたかもそれは自分の赦しを請う条件のように響いてきて、いや私は人の罪をゆるすことなんてできない、自分を攻撃する人をゆるすような寛容さはないと思ってします。確かに言葉の響きからはそのような意味にとれます。しかしそもそも私たちは人をゆるすことができるでしょうか。赦すことができないからこそ個人的ないさかいはもちろんのこと、今もって争いや戦争が絶えないのではないでしょうか。もともと私たちはゆるしの心は持っていません。しかし、持っていないからとあきらめるのではなく、私の罪をゆるしてくださった神様の深い愛とゆるしを知って、それを私の愛とゆるしとなるように祈るのです。

最後に、とりなしの祈りについて考えたいと思います。私たちは心がいつも神様に向いているとは限りません。悲しみや苦しみが深くて祈ることさえできない時があります。礼拝の中で主の祈りを祈る時に、うわの空で言葉だけを唱えていることがあります。しかし主の祈りはそのような祈れない時、うわの空の時にこそ力を発揮する祈りなのです。最初に主の祈りが共同体の祈りであると申し上げました。自分が祈れない時、同信のキリスト者のとりなしの祈りが力を持つのです。代わりに祈ってもらうこと、祈られていることを知る時、どれほど慰めになるでしょうか。どれほど励みを与えられるのでしょうか。そのように私たちは友のために、世界のために主の祈りをいのり、自らの信仰を整え、神様の国の実現のために働くのです。