2022年7月17日 説教 松岡俊一郎牧師

神様へのおもてなし

ルカによる福音書 10: 38 – 42

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

現在、元首相の襲撃事件をきっかけに、カルト宗教である旧統一教会が再び問題になっています。犯人がその信者二世で、母親の教団への多額の寄付のために家庭が破綻し、それを恨みに思っていたこと、元首相とその教団との関連が原因とされているからです。この事件の一般の方々の目やマスコミの取り扱いが、ひとくくりに「宗教」とされているので、私たちは迷惑に感じながらも注意しなければならないと思って報道を注視しています。
信仰との出会いは人さまざまです。クリスチャンホームで育った方と、そうでない方では出会い方が異なります。しかし同じ大人になってから信仰に入った方でも違いがあります。
本との出会い、人との出会い、自分との出会いなど、きっかけは様々です。
私は幼少のころから教会に行っていましたが、クリスチャンホームではありませんでした。
しかし、中学生の頃、自分の考え方の中の傲慢さに気づき、それを神様への罪と理解して、イエス様の十字架の救いを見るようになりました。実際に洗礼を受けたのは、高校二年の年度末のイースターでした。その傲慢さとは、自分は一生懸命まじめにやっているのに、同級生はサボってばかり、いい加減に過ごしていることに腹を立てていたことがきっかけでした。ですから私は今日の福音書に登場するマルタの気持ちが痛いほどわかるのです。マルタは一生懸命すぎて、そしてそれゆえに人を裁いて、彼女の中には心の安らぎはなかったのではないかと思います。

マルタとマリアいう女性が登場します。今日のエピソードはルカによる福音書固有のものですが、ヨハネによる福音書はこの姉妹をラザロの兄妹として描いており、マリアをイエス様の足に香油を塗った女性として描いています。マルタはイエス様の一行を招き入れます。当時は男性中心の社会ですから、男性が律法を学び、それを支えるために女性は働いたのです。ですから、女性であるマルタが前面に出てユダヤ教の教師と考えられていたイエス様を招き入れることは大変珍しいことでしたし、この招きを受け入れたイエス様の行動も当時としては異例のことでした。

一行を招きいれたマルタは、もてなしのためにたくさんの料理を作り、かいがいしく働きました。それが女性の務めだったからです。ところが同じ女性であり、一緒に働くべきマリアはイエス様の足元に座り、イエス様の話に聞き入っていたのです。ヨハネ福音書の12章でも、マルタは給仕をし、マリアはイエス様の近くにいます。これに気づいたマルタは、マリアの態度を不満に思い、イエス様に「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」と訴えたのです。二つの思いがあります。ユダヤの習慣に従って女性は給仕に専念すべきなのに、マリアはそれに従っていない。もう一つは、自分だけが働いてマリアはイエス様のそばにいる。わたしも出来たらイエス様のそばでお話を聴いていたいのに。いずれもマルタにとっては自然に沸き起こる気持ちではなかったかと思います。

しかし、イエス様は「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。」と言われました。これではまるでマルタの立場がありません。マルタが愚かで、マリアが賢いといわんばかりに聞こえてきます。
しかし、そのように受け取ることは正しくありません。イエス様の言葉は、マルタへの裁きではありません。マルタもまた、イエス様にとって大事な弟子の一人です。「マルタよ、マルタ」との呼びかけは、マルタにもわたしの言葉を聞いてほしい、マルタ、あなたにとって良い方を選んでほしいとのイエス様の愛情の現われだったのです。

どういうことでしょうか。
旧約聖書の日課には、アブラハムに神様が旅人として現われ、アブラハムが一生懸命もてなす姿が描かれています。神様はそのもてなしにとても満足され、「わたしは来年の今頃、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男と子が生まれているでしょう」とみことばを語られます。ところがサラはそれを物陰から聴いて、密かに笑ったのです。これは今日の日課には入ってはいませんが、続きです。既にアブラハム夫婦とも老人だったのでサラは笑ったのです。その笑いはみことばを受け入れないことを表していました。アブラハムのもてなしには、一緒にみことばが与えられるのです。そしてそのみことばを受け入れることが求められるのです。どちらが先というわけではありません。みことばと奉仕はひとつのこととして考えられるのです。

人の奉仕は、みことばを聴いて、自分が生かされ、豊かにされることによって、喜びを感じることによって真心からのものになってくるからです。マルタは、もてなしのために働きました。しかしそれをしないマリアに不満を感じてしまいました。この気持ちは、私たちもしばしば感じることです。しかし、それはマルタのもてなしがみことばと結びついていないがゆえに、みことばによって自分自身が豊かにされ、喜びへの奉仕と導かれていないがゆえに真心の奉仕になっていなかったことを表しています。

私たちの日常に起こることを思い起こしても理解できます。人に強いられ、強制され、あるいは義務として起こる奉仕に、真心は込められません。そこにはもともと喜びがありませんから、結果にも喜びはないでしょう。もちろん人は奉仕によって変えられることがありますから、最初はいやいやでも、そのうちに喜び、充実感、満足感に変わることがあります。しかし、最初から豊かな思い、喜びから奉仕が始まるならば、その奉仕に困難が伴ったとしても、それを乗り切ることが出来るのです。そのためにみことばが必要なのです。

私たちを奉仕へと導くみことばとは何でしょうか。それはイエス・キリストが、ご自分をわたしたちのために捧げ、奉仕してくださったという救いの事実です。
イエス様は、ルカ12章で「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕をしてくれる」とたとえを語られていますし、さらに十字架にかかられる前に弟子たちと最後の晩餐をされたとき、その席上で、弟子たち一人一人の足を洗われました。そしてペトロがそれを畏れ多いこととして断ろうとすると、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。これは単に足を洗うだけのことではなく、イエス様の十字架の死という最大の奉仕を受け入れることを意味しています。この十字架の救いによって人は、自分の弱さや罪深さにとらわれることなく、自分自身を受け入れ、喜びとすることが出来るのです。このようにイエス様のみことばは、自らを捧げられた十字架という奉仕と一体のものです。みことば抜きの奉仕は、奉仕する人を豊かにしませんが、みことばと結びついた奉仕は、奉仕する人を生かすのです。
イエス様はマルタにこの真実を知ってほしかったのです。そして、それを選び取ってほしかったのです。みことばの良き聴き取り手は、良き働きへと導かれるからです。
私たちも選び取りましょう。