2022年7月10日 説教 松岡俊一郎牧師

同じようにしなさい

ルカによる福音書 10: 25 – 37

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ユダヤ人たちの間には律法という守るべき規範がありました。聖書に登場する人々の生活はこれを忠実に守ることが前提となっています。やがてそこには、律法を守りさえすれば、すべてがOKという考えも生まれます。律法にはモーセが受けた律法のほかには後の時代に加えられた多くの言い伝えが含まれていました。そして人々はむしろこの言い伝えを大事にしていたのです。イエス様はそんな人々を「モーセは、『父と母を敬え』と言っている。それなのにあなたたちは言っている。『もしだれかが父または母に対して「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対しても何もしないで済むのだ』と批判されています。教えの心を理解しないで、形だけ、形式だけ、表面だけのかかわりで良しとしていることに強い憤りを感じておられるのです。

今日の福音書の日課には、善きサマリヤ人のたとえが書かれていますが、もともとこのたとえは、律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」とイエス様に尋ねたところから始まります。これに対してイエス様は、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と尋ねます。専門家は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」という、ユダヤ人であればだれもが子どもの頃から知っている言葉を答えます。イエス様は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。」と言われます。これに対して専門家は「隣人とはだれですか。」と答えます。当時の考えでは、愛する対象はユダヤ人同胞でありました。つまり、対象を限定して愛するという考えが一般的であったのです。これに対してイエス様は、善いサマリヤ人のたとえを語られます。

強盗に遭ったユダヤ人が道端に倒れています。そこにレビ人と祭司が通りかかります。彼らは宗教家です。神様の救いを説き、愛を勧めていたはずの人たちです。しかし彼らは強盗にあった人を見て道の反対側を通って行ったのです。彼らはどんな気持で通り過ぎて行ったのでしょうか。祭司は死んだ人に触れてはいけないと定められていたから、仕事を終えて疲れて帰る途中だから、仕事のために急いでいたから、けがれた人にかかわり合いになりたくなかったから、自分も強盗に襲われるといけないから、自分には人助けできるような力はないから、など色々な言い訳が考えられます。そしてこの言い訳はわたしたちの言い訳でもあるのです。つまりわたしたちの誰しもがこの言い訳を小脇に抱えて道の反対側を通り過ぎているのです。もう少し掘り下げて考えたいと思います。繰り返しますが、レビ人も祭司も宗教者でした。私たちと同じ信仰者と言っていいと思います。その信仰生活はというと、決まった事柄を守ることでした。しかし信仰者は、決まった宗教行為を行うだけではなく、人を哀れに思うこと、同情することが大切です。次に申し上げますが、哀れに思うことは愛だからです。同情は偽善だという意見があります。しかし私は賛成できません。同情は心に寄り添うことだからです。もし、困っている人を見て何も感じないなら、自分の感受性の足りなさ、愛情の足りなさを問いましょう。イエス様の心がどうであったか、イエス様がどう感じられるかを問いましょう。

この強盗に遭った人を助けたのはサマリヤ人でした。サマリヤ人とユダヤ人とは犬猿の仲でした。紀元前721年に北イスラエルが滅亡した時、北イスラエルの住民は捕囚として連れ去られ、その代わりにアッシリアの王は外国人を移住させ、残っていたユダヤ人との雑婚が始まります。またアレキサンダー大王はマケドニア人をその地方に住まわせ、ますます雑婚は進みました。純潔を重んじるユダヤ人にとっては、我慢のならないものであり、軽蔑の対象となったのです。つまりこの関係から言うならば、サマリヤ人こそ道の反対側を通ってもよかったのです。しかし彼は「その人を見て憐れに思って」介抱するのです。この「憐れに思って」という言葉は、「はらわたがちぎれるほど」の気持ちを表す言葉です。ここに素通りした人々とサマリヤ人の違いがあります。素通りした人々は自分の立場、自分の都合、自分の理屈で素通りしていきました。しかし、このサマリヤ人は立場や都合、理屈ではなく、憐れに思うというただ一つの心で傷ついたユダヤ人に接したのです。これは愛です。この愛には打算や計算はありません。この愛はお金も時間も力も労力も惜しまず働くのです。だからこそ、このサマリヤ人の行動とイエス様の「行って、あなたも同じようにしなさい」という言葉は、わたしたちを追い求めるのです。

時として、この問いかけにわたしたちは、それが出来ていない「後ろめたさ」を感じてしまいます。そしてこの問いにさえ素通りしてしまおうとする自分を感じます。しかし、このたとえはわたしたちに後ろめたさだけを与えるのではありません。このサマリヤ人のように、いやそれ以上の愛をわたしたちに向けてくださるお方があるからです。道の反対側を通るのではなく、私たちのただ中にあって、傷ついた者の傍らに立ち、傷ついた者を癒し、傷ついた者を救われるお方がいるのです。それは世界中の傷ついた人の中におられます。戦争や虐待、差別や貧困、孤独や悲しみ、いろいろな状況の中の傷ついた人の隣人となってくださるキリストがおられるのです。まず、キリストが善きサマリヤ人としてわたしたちに仕えてくださり、私たちを癒し、救ってくださるのです。そして少しでも元気を与えられた私たちは、今度はわたしたちが善きサマリヤ人として歩みだすのです。その場所、その方法は一つではありません。広く世界に向けて働きだすこともできます。国内や地域に目を向けることもあります。人間関係や家庭の中で出来ることもあるのです。

「わたしの隣人とはだれか」と尋ねた律法の専門家に対して、イエス様は「誰がその人の隣人になったか」と問われました。隣人というものを狭めて考えて関係をそこだけに限定しようとする律法の専門家。それに対してイエス様は「誰が隣人になったか」と問われます。その問いは「誰がわたしを必要としているか。」「わたしは誰のもとに駆け寄るか」というわたし自身への問いに変わっていくものだと思います。出会った助けを必要とする人に心を砕き祈る、時間や労力や資金を提供する、それが愛の行為であり、イエス様があなたも同じようにしなさいと言われるのです。