2022年6月12日 説教 松岡俊一郎牧師

真理の霊の導き

ヨハネによる福音書 16: 12 – 15

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旧約聖書の中でモーセが神様に召しだされた時、エジプトにいるユダヤ人たちを導き出しなさいと命じられます。そこでモーセは、「彼らのところに行きます。」が、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らはその名は一体何かと問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」と言います。そうすると「神はモーセに『わたしはある。わたしはあるという者だ』」と答えられました。つまり、神の名は「ある」という名なのです。英語の聖書では I am who I am と書かれています。「私は私だ」という訳でいいでしょうか。不思議な名ですが、私は私以外の何物でもない、つまり「ある」というのは存在するという事です。天地万物は神様によって創造されたのですから、神様は何からも創造されたものではない。最初から存在するお方なのです。
弟子のペトロが、様々な異教の神々が祀られているフィリポ・カイサリアでイエス様から「あなたはわたしを誰と言うか」と尋ねられた時、ペトロは「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と答えました。ヨハネ福音書の第一章の冒頭はロゴス・キリスト論と呼ばれる箇所です。ロゴスというのは言という意味です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」つまりここでは言とはキリストであって、このキリストは初めから神と共にあったと言っているのです。
先週の日曜日の日課では、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と願い出ます。するとイエス様は「わたしを見た者は、父を見たのである・・・わたしが父の家におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか」と言われています。つまりここではっきりとイエス様は父なる神と一つであると言われているのです。さらに「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である」と言われています。14章26節では「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言われています。父と子と聖霊が登場しました。

これが、教会が神様を三位一体の神と呼ぶ根拠です。三位一体とは、神様を父と子と聖霊の三つでありながら一人の神としてあがめる信仰です。それは三つの神様がおられるのではもちろんありません。さらに、一つの神様が三つのお姿を持っておられるのでもありません。この父と子と聖霊を「位格」と言います。この位格ペルソナとは人格Personの語源となることばで、もともとは役者が舞台で演じる時のお面のことでした。能楽などのお面を思い出してください。つまり役者がそれぞれのお面をつけて、それぞれの役を演じるのです。それじゃ、やっぱりひとりの神様が三つのお姿を持っておられると言っていいではないか。確かにそれに限りなく近いと言うしかないのですが、ひとりの役者が一つの役を演じている場合、その役者は他の役を演じられないわけですが、三位一体の神はそうではない。たしかに父がおられる時には、子もおられ、聖霊もおられるのです。ひとりの人がいくつもの役を同時に演じているともいえないのです。それじゃ、どうなんだ、ということになりますが、ひとりの神が、私たちと向き合ってくださるその存在の仕方として、関係の持ち方として、父と子と聖霊の三つの姿として向き合ってくださる。すべての創造者としての父なる神、私たちの苦しみや悲しみを一緒に負ってくださるキリスト、私たちを支え、父なる神とキリストへとつないでくださる聖霊。私たちはいつも同じ状態、同じ心ではありません。絶えず変わり続けています。神様はそのような私たちのその場その場において私たちと共にいて向き合ってくださるのです。これが多神教の神様と違うところです。たとえば山の神、海の神、火の神、水の神など、日本の中でたくさん祭られている神も、山の神は山を相手に生業としている人にとっては神であっても、海で働く人にとっては関係ないと言えば関係ないのです。陶芸をする人にとっては窯の中には火の神様がいますが、水の神様はそこにいてもらっては困るのです。しかし父と子と聖霊の神様は、どんなときにも父と子と聖霊なる神として私たちの前におられるのです。ひとりの神様が私たちのどんな場面においても相対してくださる。つまり、父と子と聖霊なる神様は、私たちのありとあらゆる場面におられる、まさに共におられるのです。
父なる神様が天地を創造され、子なるキリストが十字架によってわたしたちを罪から贖ってくださり復活し昇天された。いなくなってその代わりとして聖霊を与えてくださった。聖書を読んでいくとそのように、時系列的に考えてしまうのですが、そうではなく、いつもどの場所においてもこの父と子と聖霊なる神が私たちと一緒にいてくださるのです。

今日の福音書の日課は、イエス様が十字架にかかられる前に弟子たちと一緒に食事をされた最後の晩餐の時に語られた言葉です。それは「惜別の説教」とも呼ばれます。
イエス様はこれまで三回にわたって自分が十字架にかかって死ぬことを予告されました。そしてここで別れの説教をされるのです。しかし弟子たちはそれを現実のことと信じられませんでした。今日、「今、あなたがたには理解できない」と言われているとおりです。弟子たちも何か良からぬことが起きそうだという事は感じ取っていたかもしれませんが、イエス様が十字架にかかって死ぬことを本当に起こることとは信じられず、ましてやその十字架が救いの出来事であることなど理解できなかったのです。それを理解させるために、イエス様は「真理の霊が来る」そして「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言われるのです。この真理こそが神の愛であり、その成就としての十字架の出来事なのです。聖霊はこの真理を「告げる」働きをします。弟子たちは告げられなければ真理を悟ることはできません。私たちもイエスさまのみ言葉を告げられなければ信仰の道に入ることはできません。この告げる働きをするのが聖霊なのです。そこでは聖霊がどんな姿をしているのかなど、どうでもいいことです。告げられる内容が大切だからです。このみ言葉によって私たちは、救われ、変えられるのです。

イエス様の生涯は、誕生の時、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われました。そして天に昇られるとき、「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。「共におられる」これは私たちに与えられた神様のキーワードです。そして私たちは礼拝の時、父と子と聖霊のみ名によって礼拝を始め、祝祷の父と子と聖霊のみ名によって礼拝を閉じるのです。私たちの人生と生涯もこの父と子と聖霊の神のみ名とともに始まり終えたいと思うのです。それは私たちの人生すべてが神様のみ手の中にあることにほかなりません。