2022年6月5日 説教 松岡俊一郎牧師

聖霊の風を受けて

創世記 11: 1 – 9
使徒言行録 2: 1 – 21
ヨハネによる福音書 14: 8 – 17

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旧約聖書の特に創造物語は、少なくとも今から三千年以上前に書かれたものです。それは文書となる以前から口伝伝承として口伝えに伝え続けられたものです。ですから、バベルの塔のお話も、必ずしも旧約聖書がオリジナルとは言えないかもしれません。同様のお話は各地にあったのではないかと推察されます。私が想像するに、大昔の人はなぜ自分の部族以外の人とは言葉が通じ合わないのだろうと疑問に感じ、その疑問がやがてバベルの塔の神話となって広がったのだろうと思います。しかしそこには大変深い意味がありました。

どのような意味が込められているかと言うと、こうです。
神様が創造された人類は、同じ言葉を使って、同じように話していました。もともと違う言葉を話す必要はなかったのです。しかし、人類はそれに満足しませんでした。彼らは石の代わりにレンガを作り、それを焼き、漆喰の代わりにアスファルトを用いて塔を建てるのです。ここには人間の科学と技術の発展と人間の力が誇示されています。そして「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と企てるのです。創造の神様から世界に広がるように命じられていた人間はここに来て、散らされることのないように企てるのです。一つとなることを目指し守ろうとしているのです。これだけを見ると、それはいいことのように思います。しかしそうではありませんでした。彼らには散らされることへの恐怖がありました。散らされることは、本来は神様が祝福を与え、神様が望まれることでした。天地創造の時、神様は「産めよ、増えよ、地にみちよ」と祝福されているからです。しかし人は、散らされることに恐怖を覚えるのです。それは神様の意図への不信から来る孤独への恐れでもありました。神様を信じられないと独りに耐えられないのです。もう一つは、有名になるためです。有名になるとは、自分の名声を立てることです。つまり、神の意に背いて、神様よりも自分を前面に、高い位置に置きたいという欲望です。これらは、罪に基づくものです。罪に基づき、罪に従って人々は集まり塔を建てようとしたのです。これに対して神様は、「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられるようにしてしまおう」と彼らを散らされたのです。人の罪に基づく結集と神様の裁きとしての離散でした。神様のみ心と離れたところでの結束、それは傲慢に基づく、やがては分裂と破壊を招くものだったのです。

聖霊降臨の出来事に目を向けて見ましょう。使徒言行録によれば、弟子たちは一つのところに集まって祈っていました。復活の主が送ると約束された弁護者、聖霊を待ち望むために集まっていたのです。実際には、彼らの中には、ユダヤ人を恐れる臆病さもまだ残っていて、心細さから集まっていた人もいたに違いありません。いずれにしても、イエス様が命じられたように集まっていたのです。そこに聖霊降臨が起こりました。突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響き、そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人一人の上にとどまったのです。そして、人々は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出したのです。ここにはバベルの塔とは違う離散があります。それは離散と言うより宣教の広がりと言った方がいいと思います。
そこにはいろいろな地方の人たちがいました。弟子たちの多くは、ガリラヤ地方の出身です。ガリラヤ地方のことばには独特のなまりがあったと言われますから、他の人たちは、弟子たちがガリラヤ出身だとすぐわかったのです。しかし弟子たちはガリラヤのなまりで話すのではなく、そこにいた人々の出身地の言葉で話し始めたのです。そこには外国の人たちもいました。彼らはその外国の人たちにもわかるように話し始めたのです。それはある人には不思議なことに思え、ある人々にはお酒に酔ったように見えたようです。しかしペトロをはじめとして弟子たちは、預言者ヨエルの言葉をもって預言の成就を知らせたのです。
ここにも結集と拡がりがあります。それはイエス様が命じられた聖霊を待ち望む祈りのための集まりであり、主イエスの復活を世界に宣べ伝えるための拡がりです。

このように神様は集められ、散らされるのです。しかしここで注意したいことは、神様のみこころによる結集は祝福の分散となり、人の罪による結集は裁きとしての離散となるということです。聖霊降臨が起こった結集は、聖霊を待ち望む祈りのためでした。それは神様のみこころによる結集です。そして神様に信頼し、力を求めるのです。ここでの弟子たちには何の前提もありません。彼らはイエス・キリストの十字架の死によって、空っぽの状態でした。それまで弟子として培われてきた知識も名誉も十字架の前でなくなってしまっていましたし、十字架の前ではイエス様に従う信仰さえも失っていたのです。しかしその空っぽの彼らに復活の主はもう一度命を与えられるのです。それは人が最初に創造された時のように、聖霊を吹き込まれて生きたものとなるのです。
聖霊降臨によって、聖霊を吹き入れられ、命を与えられた弟子たちは、今度は散らされます。そしてこの散らしは、神様の確かな意志をもった派遣となって全世界に広がっていくのです。

教会が神様の霊を求める祈りの集団となるとき、そこではみ言葉が語られ、聖霊の導きによって聞き取られます。そこには聖霊が吹き入れられるのです。そして聖霊を吹き入れられた私たちは、み言葉を携えてそれぞれの生活に散らされていくのです。それは証しと伝道への派遣です。

最後に福音書を見てみましょう。フィリポはイエス様に「御父をお示しください」と願いました。これに対してイエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われます。父なる神とみ子なるイエス様が一つであり、イエス様の語られる言葉、み業が、父なる神様の言葉であり働きなのです。フィリポは、イエス様は父なる神様とは別なお方だと思っていました。これは私たちにとっても難しいことです。ヨハネによる福音書の最初には、キリストが生まれる前から父なる神と一つであったと言っています。しかしこれには異論を唱える人々がいました。教会は長い間、これをキリスト論論争として議論してきました。そして父なる神と子なるキリストは、分けることが出来ず、神性において一つであると結論付けました。アタナシウス信仰告白の後半部分です。それが今日の福音書には反映されています。それにとどまらず、父なる神が私たちの助けとなる聖霊を送られるのです。聖霊降臨です。聖霊は弟子たちのためだけでなく、今日の私たちの理解を助けるため、私たちを支えるため、私たちを宣教への送り出すためにも与えられ働くのです。

今日、私たちは洗礼式をいたします。洗礼式は受洗者にとってはイエス・キリストによる新しい生まれ変わりであり、信仰による新しい生き方の始まりです。そして教会にとっては、そのために聖霊の働きを祈る時でもあります。聖霊が本日の受洗者、そして私たちの上に豊かにありますように。