2022年5月15日 説教 松岡俊一郎牧師

互いに愛し合う

ヨハネによる福音書 10: 22 – 30

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イエス様のご生涯は、ユダヤ教の律法主義との闘いでした。ユダヤ教はモーセ五書とよばれる創世記から申命記までを律法と呼び、それに加えてその解説や言い伝えなどを含めたものを広い意味での律法として、忠実に守るよう人々に厳格に求めていました。当時のイスラエルは宗教社会でしたから、人々はそれらの律法に縛られ、制約されて生活していたと思われます。しかし実際には、宗教的な権威を持っていた祭司やファリサイ派の権力が強く行使され、律法が本来持っている中心的なメッセージとはかけ離れた形式的な守りが求められていました。イエス様はその形骸化した信仰の姿に着目され、いわゆる広い意味での律法を厳格に守り、その制約の中で生活するという律法主義からは自由な教えを説かれていました。

今日の福音書の日課にも、掟というような硬い言葉が見られます。この掟という言葉は、私たちには現実味のない言葉です。掟は所属するグループを拘束するものです。掟を守ることによってそのグループの一員であることが認められるのです。掟を守らない者はそのグループの一員とは認められないのです。イエス様もそのような意味でで「あなたがたに新しい掟を与える」と言われます。イエス様に属するための掟は「互いに愛し合いなさい」という事です。しかし、この言葉ならばレビ記19: 18にもあります。そこでは「自分を愛するように隣人を愛しなさいとあります。それでは何が新しいのでしょうか。
よく聞く聖書、耳慣れた言葉としては「愛し合いなさい」と言うのは、新しくありません。しかし、守れているかと言うと、そうではないように思います。守れるかという事では、いつもこの言葉は私たちに新しく迫ってくるのです。

人はいつも他の人のために生きることはできませんし、聖書もそのようには求めていないのです。最近、特によく聞かれるのは「自分を大事にする」という言葉です。使い方によっては、この言葉は大変利己的な響きをもってしまいます。しかし、そうではないでしょう。むしろ与えられた命、一回限りの人生、人生という限られた時間、与えられた能力や可能性などを生かすような生き方をしよう、人に左右されるのではなく、人に追随するのでもなく、自分自身の生き方を見つけ生きようということだと思います。それは健全な個人主義です。しかし、私たち日本人の間ではこの個人主義というものが偏って受け取られ、自分勝手だとか、周囲の調和を乱すとして批判され敬遠されてきたのです。その結果、自分自身というものを確立することができず、人の顔色をうかがい、忖度し、我慢を繰り返し、社会の流れに押しつぶされている人が急増しているのです。だからこそ今、「自分を大事にする」ことが声高に叫ばれるのです。そのように考えると、旧約聖書の「自分を愛するように」という事がわかってきます。しかし、それが新しいのでしょうか。

イエス様の教えには、確かに自己中心を罪とし、「自己犠牲」ということが底流に流れています。しかしそれはまず神様との関係、神様の事柄として考えなければなりません。そうしないと愛を律法として、クリスチャンであるための新たなルールとしてしまうからです。愛も自己犠牲も他者への奉仕も、神様の愛から生れるものであり、そこから生まれ出るはずのものが、いつでも律法主義の一命題へと変質するのです。

聖書の原文であるギリシャ語には、愛と訳せる言葉が三つあります。利己的な愛をあらわすエロース、神の愛をあらわすアガペー、友情をあらわすフィリアの三つです。
その中でも聖書はアガペーを用いています。そこで注目に値するのは、このアガペーがギリシャ語の旧約聖書には20回しか使われていないのに、新約聖書では116回も使われているのです。アガペーは裏切ることのない真実の愛です。弟子たちはイエス様の十字架によって真実の愛とはどんなものかを目の当たりにし、深く心に止めたのです。だからこそアガペーを多用し、ヨハネの第一の手紙4章では「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」というのです。

イエス様はヨハネ15: 13で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われます。そして「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と言われるとき、そこには神様自らが独り子イエス様を十字架にかけて人々に愛を示しておられるのです。「友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はない」との言葉は、「わたしのためにイエス様が自分の命を捨てられる、これほど大きな愛はない」と言い換えることが出来るのです。
この愛を知る時、私たちは戒めの呪縛から解き放たれます。いつのまにかクリスチャンが自分たちに課してきた「愛さなければならない」という律法から、人を自己犠牲と他者への奉仕という呪縛から解き放つのです。愛は人を自由にします。個人を尊重します。そして自由な者として、それも神様から愛された自由な者として、神様の愛を証することができ、奉仕することができるのです。パウロはガラテヤ5: 13でこう言います。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え合いなさい。」
このような神の愛によって自由にされた私たちから生まれ出る行いや生活こそが、神様が求められる実りであり、新しい掟なのです。