仕える者のようになる
ルカによる福音書 22: 24 – 34
イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに入られ、死なれるまでには、いろいろな話が記録されています。四つの福音書で記録は異なっていますので、ルカによる福音書だけでたどっていくと、まずは最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ユダの裏切りとイエス様の逮捕、大祭司の家にて、最高法院での裁判、ピラトの官邸にて、ヘロデの宮廷にて、再びピラトのもとでの裁判、十字架にかけられます。これらの一連の出来事、イエス様の十字架の出来事は、罪のゆるしがテーマです。
私たちはお祈りするときに「父なる神様」と呼びかけます。ジェンダー問題にこだわる教会は、神様を父、つまり男性とするのは正しくないとし、かと言ってイエス様が「父よ」と呼び掛けておられることを否定することもできず、「イエス・キリストの父なる神様」と呼び掛けるようにしているのを聞いたことがあります。しかし大切なことは、父親か母親かではなく、男性か女性かではなく、放蕩の息子のたとえで息子が「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言ったように、罪によって神様を親と呼ぶことが出来ない私たちを、イエス様は十字架によって罪を引き受けてくださり、神の子としてくださったのです。そしてそこには、寛大な父親が息子たちを受け入れたように、神様は私たちの罪を十字架のとりなしとゆるしによって、受け入れてくださったのです。イエス様の十字架の道行きは、侮辱と嘲笑、苦しみと痛みの連続でした。イザヤ書53章の「苦難の僕」では「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わされた。苦役を課されてかがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように彼は口を開かなかった。」のです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」のです。
今日の福音書の日課に選んだ箇所には、その真実を理解できない弟子たちの姿があります。イエス様は十字架を目指して歩んでいらっしゃいます。その緊張はとんでもなく大きなものだったと思います。しかし弟子たちの間には、そのような緊張感はありません。自分たちの間でだれが偉いかと議論し合っているのです。イエス様は弟子たちを頭ごなしに叱ることはされません。いったんは彼らの価値観に寄り添われます。人の世界では、力のある者、支配する者が評価されるからです。上下関係、それが私たちの社会の価値観です。余談になりますが、私たちの日本福音ルーテル教会の牧師の間には上下関係はありません。私が事務局長になった時、当時牧会をしていた教会の信徒さんから「栄転ですね」と言われましたが、誰も事務局長のことを偉い地位とは思っていませんでしたし、むしろ苦情処理係として叱られてばかりでした。ところがアメリカの教会は違いました。牧師の間にしっかりとした上限関係がありました。上司を差し置いて発言すると、その後で注意されている場面を目撃したりしました。組織運営としてはアメリカの教会の方が上手くいくと思いましたが、案外日本のルーテル教会の方が天国に近いのかもしれないなどと思いました。
本題に戻ります。この偉くなりたいという気持ちは、普通の生活の中で向上心という意味ではいい働きをするのですが、罪と表裏一体です。人の上に立ちたいという気持ちが人を支配したい、さらに神様にとって代わりたいという罪の根幹にかかわることだからです。今、ウクライナで起こっている惨劇も、ひとりの人間の独善的な思想と権威主義、権力と武力によって、人の命が紙くず同然の扱いがされており、嘘と欺瞞に満ちたことがまかり通っているのです。そして自分が罪を犯すだけでなく、人にも罪を犯させているのです。
だからこそイエス様は、弟子たちに本当の権威、本当の権力、神様の前での人の取るべき姿を示されるのです。それが「仕える」という事です。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。・・・わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」イエス様は最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗われました。まさに給仕する者、それ以上に奴隷の姿を取って弟子たちの足を洗われ、仕えることを教えられたのです。イエス様は罪深い私たちの罪をゆるすために自らを低き者とされました。そして罪を引き受け、私たちの罪の身代わり、贖いとして十字架にかかられたのです。このイエス様の愛の行為、ゆるしの行為がなかったならば、私たちは神様の前に立つことはできません。しかし今やこのイエス様のゆえに、神の子とされたのです。イエス様は神様からご自分に与えられた真の権威を私たちにゆだねてくださいました。欠けの多い私たちを神様の器として用いてくださるのです。
31節以下では、ペトロについてイエス様は特別の配慮をされています。信仰がなくならないようにと祈ってくださり、その信仰によって兄弟たちを力づけてやりなさいと言われています。もちろんここでもペトロはまだ理解していません。自分は最後までイエス様についていけると信じているのです。そんなペトロに対して、イエス様は三度の裏切りを預言されるのです。ペトロにとってこの預言はショックなことだったに違いありませんが、イエス様はその裏切りを、赦しをもってペトロを受け入れておられるのです。