2022年4月3日 説教 松岡俊一郎牧師

キリストの代わりに

ヨハネによる福音書 12: 1 – 8

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今私たちはイエス様の十字架のご受難を覚える四旬節、受難節の日々を歩んでいます。この二年以上コロナの影響で教会の行事や集会をお休みすることが多くて、教会の暦をしっかりたどることが出来ないので、教会暦を強く意識していないと忘れそうになってしまいます。

今日の福音書でも、イエス様は十字架の出来事を覚悟してエルサレムに向かっておられます。過ぎ越しの祭の1週間前に、イエス様はベタニヤ村に入られました。イエス様は過ぎ越しの祭りの時にエルサレムで捕えられます。ベタニヤはエルサレムのすぐ近くの村ですから、時系列的にはあっています。ある家に入られます。この家はマルコ福音書とマタイ福音書では重い皮膚病のシモンの家とされています。そこにはイエス様が復活させられたラザロと姉妹のマルタとマリアがいました。マルタはルカ福音書10章38節にもあるように、いつもの彼女らしくせわしなく給仕をしていました。そこにマリアが純粋で高価な「ナルドの香油」を一リトラ、約326グラムが入った壷をもって来てイエス様の足に塗り、それを自分の髪で拭ったのです。どれだけ高価な物であったかは、後で「それを300デナリオンで売ったらいい」と言われていることから考えると、1デナリオンは労働者一日分の給与ですので、大変高価であったかがわかります。このマルタの行為によって家じゅうが香りでいっぱいになり、周りの者は驚きました。そこで後でイエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言いました。福音書記者ヨハネはその意図を「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」とユダを悪く言っています。これはヨハネ福音書が書かれた初代教会の中でのイスカリオテのユダの評価をあらわしているのかもしれません。このユダの発言は、それを売って貧しい人々に施すという実にもっともらしい合理的な意見でした。私たちの間ではこのもっともらしい意見、合理的な意見が力を持ちます。このような意見が出るとなかなか反論しづらいものです。しかしもっともらしい意見が絶対かと言うと、必ずしもそうばかりとも言えません。しばしば私たちが行う行為は無駄と思えるものがあります。しかし無駄と思えるものがかえって必要なこともあるのです。

今私が参加する会議のほとんどはオンラインで行われます。交通費もかからず会計担当者は喜んでいますし、私たちも会議の場所に行く手間が省けて楽です。だけどオンラインでの会議は、大切な意見の要点だけが語られ、無駄がありません。そこには雰囲気の中で伝えられる空気感がないのです。無駄と思えるものが、かえって必要なのではないかと思い知らされています。

少し横道にそれましたが、ユダの意見をイエス様は「この人のするままにさせておきなさい」と遮られます。そして「わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのだから」と言われます。油を塗ることは、古くから葬りの儀式でした。安息日が明けた朝、つまりイースターの朝、イエス様の墓を女性たちが訪れたのは、イエス様を墓に納めた時はすぐに安息日が始まり、十分な遺体処理をすることが出来ませんでした。そこで安息日が明け朝に墓を訪ね、遺体に香料と香油を塗ろうとしたのです。もちろんここでのマリアは自分が行っていることが、葬りの儀式とは考えていなかったと思います。しかしイエス様はそれを葬りの準備と受け止められました。

マリアの行為は、高価な香油を使うだけではありません。彼女はそれを自分の髪で拭っています。いつの時代も髪の毛は女性にとっては大切なものです。それを足で拭うというのは特別なことです。イエス様もこの後最後の晩餐の時に、弟子たちの足を洗われます。それに共通するものがあります。足を洗う事は奴隷の仕事です。イエス様はその行為をすることで仕えることを教えられました。そこには深い愛があります。イエス様はマリアの行為を無駄なこととは思わず、自分への愛の行為として受け止め、自らの葬りのためと受け止められました。また、メシアということばは、油注がれた者という意味を持っています。マリアが知らずに行った油を注ぐという事は、結果的に十字架のメシアに対する行為となったのです。そこでイエス様は、マルコ福音書の平行記事では「はっきり言っておく、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」と言われています。

さらに考えたいことは、イエス様はイスカリオテのユダの言葉を全部否定されたわけではありませんでした。彼が貧しい人々に施しをすると言ったことを受けて、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言われました。これからイエス様は十字架にかかり、死に、復活し、天に昇られます。弟子たちの前から姿を消されます。しかしイエス様の弱い人々、貧しい人々への愛は消えることはありません。そこで貧しい人々への施しは、弟子たちの働きとなることを言われています。それは教会への促しでもあります。イエス様を信じる者、教会はイエス様の弱者への愛を実現する共同体なるのです。

パウロは「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」と言っています。私たちキリスト者がすぐにイエス様の働きを担えるわけではありません。しかし、イエス様の十字架の愛と救いを知るものとして、愛を実行し救いを伝えていきたいと思います。