悔い改めを求める
ルカによる福音書 13: 1 – 9
毎日、ロシアのウクライナ侵略のニュースが伝えられ、非人道的な無差別爆撃によって多くの非戦闘員、一般住民、子どもたちの命が脅かされています。SNSの発展によって戦争の実態があからさまに世界中に配信され、そこにある嘘と欺瞞、暴力と殺戮が明らかにされています。一国の独裁者の偏った国家観、世界観によって、他国の尊厳と文化、財産と多数の命が破壊されていく様に、私たちは怒りと無力感を感じます。私たちはこの戦争の原因が何なのか、誰なのかを知っています。しかし病気や災害、事故などに対して、その原因を突き止めようとしても突き止められないことがあります。そのような場合、何とか納得するために理由をつけようとします。今でこそ、マスコミや情報網の発達で事件の詳細や災害のメカニズムが一般のわたしたちでも知ることができますので、それらを客観的に受け取ることができますが、そうでなかった時代は何がしかの理由が必要で、それがまことしやかに流れました。ヨハネ福音書の9章には生まれつきの目の不自由な人の話が出てまいります。弟子たちはイエス様に「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」と尋ねています。これはつい最近の日本人の間でも、いや、今でも「日ごろの行いが悪いと」などと言いますので、そのような考えをする方が少なくないのかもしれませんが、病気や障碍は罪に対する神様から与えられる罰であるという考えが浸透していたからでした。つまり、本人またはその両親や先祖の罪の結果、罰として病気や障碍が与えられたと考えるのです。「先祖のたたり」というのもそのたぐいだと思います。これには何の証拠もないのですが、そう信じて人びとは納得したのです。もちろんそれはまわりに納得は与えても、本人や親しい身内に対しては慰めのかけらもありませんでした。
今日の福音書の日課にはそのような事件と事故が書かれています。ピラトがガリラヤ人の血を神殿にささげられるいけにえに混ぜたという出来事です。これはそれそのものの事件だったのか、あるいはローマ兵が神殿でガリラヤ人を殺したという事件をそのように表現したのかもしれません。ガリラヤ地方は反骨精神の強い地域でしたから、ローマの支配に対して何かと逆らっていたと思われますし、それをピラトが苦々しく思い、機会をとらえてガリラヤ人を殺すように兵隊に指示していたことは十分に考えられることでした。そして当時の考えに沿って言えば、ガリラヤ人が殺されたのは、彼らの罪の結果と考えるのが普通だったのかもしれません。しかしイエス様はこの考えに真正面から答えるのではなく、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深いものだったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と悔い改めの問題として話を進められます。さらに当時の話題になったであろう、シロアムの塔が倒れて18人の人が亡くなった事故についても、彼らが「エルサレムに住んでいたほかのどの人びとよりも、罪深いものだったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われたのです。先のヨハネ福音書の目の不自由な人の時、イエス様はその人の障碍を本人の罪でも両親の罪でもないとされていますので、ここでも殺されたガラテヤ人や塔の下敷きになった人々に罪があると考えておられないのは明白です。ここでは、その原因について語るのではなく、人びとに悔い改めを勧める機会とされているのです。
それは次のたとえを続けて語られていることからもわかります。ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておきました。たぶん1年目、2年目、3年目と毎年実を探しに来たのでしょう。ところが何年たっても実をつけないいちじくの木に主人はいら立ち、園丁に「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しにきているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言いました。ところが園丁は「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木のまわりを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言ったのです。ここで言われているいちじくの木とはキリストの教会であり、わたしたちのことです。まず考えたいことは、ぶどう園の持ち主である神様は、たまたま、いちじくの木を植えられていたのではなく、わざわざぶどう園にいちじくの木を植えられました。そこには明らかに神様の意志があるのです。そして毎年実を探しに来られています。そこには神様の、教会と私たちに対する大きな期待があります。しかしいちじくの木である教会と私たちは実を結ばないのです。ついには神様の怒りを誘います。怒りの大きさは期待が大きい証拠でもあります。しかしそこに園丁であるイエス・キリストのとりなしがあるのです。「今年もこのままにしておいてください。木のまわりを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」キリストは神様の期待が間違っていないこと、あらゆる手立てをとるならばきっと実をつけることを信じてくださっているのです。その手立てとはみ言葉であり、その救いのみ業の中心である十字架です。それをもって私たちが神様に立ち返り、その教えに従い、愛の実をつけることを待っておられるのです。このキリストの命をかけた努力に気を留めなければなりません。園丁のみ言葉の肥料にも、命をかけた努力にも答えないのであればそれは切り倒されても仕方がないのです。ここには厳しさがあります。このみ言葉を薄めるようなことは考えてはいけないと思います。イエスキリストの十字架の出来事はわたしたちに与えられた神さまの最終手段だからです。しかしだからと言って、ここで『来年』と言われていることが、それがいわゆる一年でないことは明らかです。しかしそこにははっきりと期限があることも忘れてはならないでしょう。私たちがイエス・キリストの赦しに甘えて、愛の実を結ぶ努力をしないならば、それは伐採の対象となるのです。しかしイエス様はそうならないために、待ち続け、努力し続けてくださいます。教会もまたイエス・キリストのご受難を覚えて悔い改めを説き続けます。私たちは教会と一丸となってその努力に努めたいと思うのです。
最後に大事なことは、このたとえ話には結末がないということです。いちじくの木は実をつけてぶどう園の主人は大喜びで収穫したのか。それとも園丁の努力の甲斐なく実をつけず、ぶどう園の主人に切り倒されてしまったのか。結末が書かれていないのです。これこそがイエス様から私たちに突きつけられている問いであり、期待であると思うのです。「あなたがたはどうするのか」と。