2022年2月27日 説教 鈴木亮二氏 (信徒)

十字架への出発点

ルカによる福音書 9: 28 – 36

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「旧約聖書を代表する二人を挙げてください」という質問を受けたら、皆さんは誰を挙げるでしょうか。神様が最初に創造した人間、アダムとエバと答える人がいるかもしれません。マタイによる福音書にあるイエス様の系図に出てくる二人、アブラハムとダビデと答える人もいるかもしれません。聖書にはたくさんの人が登場しますから、いきなりこんな質問をされると、すぐに答えられる人は少ないかもしれません。

 イエス様の時代には聖書は旧約聖書だけでしたが、聖書を代表する二人はモーセとエリヤでした。旧約聖書は「律法と預言の書」と言われますが、モーセは律法の代表、エリヤは預言者の代表とされていました。モーセは奴隷となっていたユダヤ人をエジプトから導き、十戒をはじめとする様々な律法をユダヤの民に与えました。エリヤは、彼自身の名前が付いた書物は聖書にありませんが、神様の言葉を預言し、バアルなど異教徒の神を退け、その最後は死ではなく神様によって嵐の中を天に上げられました。

 今日は「主の変容」と呼ばれる主日です。イエス様は三人の弟子を伴って山に登り、祈りを始めました。するとイエス様の様子が変わり、二人の人が現れイエス様と語り始めました。この二人がモーセとエリヤです。イエス様とモーセとエリヤ、この三人が話していたのは、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期についてでした。人にとって最期というと、普通は「死」を意味します。テレビドラマのナレーションでも「誰々はこのような最期であった」と言うとそれはその人の死に際のことが語られている、と考えます。しかし三人が話していたのはイエス様の死だけではありませんでした。確かにイエス様はエルサレムで十字架に架かって死なれます。しかしその三日後に復活されるのです。三人が話していたのはイエス様の「死と復活」について話していたのです。イエス様が話していた相手は旧約聖書を表す二人、モーセとエリヤでした。旧約聖書は神様の言葉を伝えるものですから、イエス様が死と復活について二人と話していたということは、イエス様の最期「死と復活」は神様の計画されていたことだということがわかります。

 そんな三人を見ていた弟子たちはどう思ったでしょうか。32節には「ペトロと仲間は、ひどく眠かったが」と書かれています。眠いときというのは、人間はしっかりと考えることができません。イエス様と二人が話をしているが、どんな話をしているのかきちんとわかってはいなかったと思います。イエス様が祈っておられるとき、突然その様子が変わり、服も真っ白に輝いたのです。ペトロは何を思ったか「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言います。申命記に書かれている、モーセが神様と会い神様から預かった掟を人々に語る場面をペトロも知っていたでしょう。同じような場面、しかもイエス様はモーセのように顔だけではなく着物まで白く輝いていたのです。ぼんやりとした頭では三人が話している内容まで理解はできなかったと思います。ペトロが提案した仮小屋を建てるというのは、私たちの先生がモーセのように光り輝いている、その先生が聖書の偉人であるモーセ、エリヤと一緒にいる、こんなすごいことはない、やっぱり私たちのイエス様はすごい人だ、ぜひ記念になるものをここに残しておこう、といったことではないかと思います。イエス様の死と復活ではなく、目の前の光景に圧倒されてそのことだけに気を奪われてしまいました。弟子たちは三人が話していることは何もわかっていなかったのです。

 イエス様はご自分の死と復活について、弟子たちに直接話をしていました。今日の福音書は「この話をしてから」という言葉で始まりますが、「この話」というのは21節から始まる部分で、イエス様は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と弟子たちに話されました。また、今日の福音書のすぐあと、44節でも「人の子は人々の手に引き渡されようとしている」と弟子たちに言われています。しかしイエス様が弟子たちに何度「死と復活」を話しても、弟子たちはその意味を理解できません。21節以降と同じ記事であるマタイによる福音書16章21節以下では、イエス様がご自分の死と復活を弟子たちに言われる場面で、ペトロはイエス様をわきに連れて行って「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめました。弟子たちは、イエス様の死と復活について、イエス様の死は自分たち(弟子たち)にとって恐ろしいこと・あってはならないこととしか考えられず、その復活は彼らの理解を越えたところにしかなかったのです。私たちが聖書を読むと、弟子たちのこのような理解を「しようがないやつらだな」と思ってしまうかもしれません。でも私たちもイエス様のことはすべて理解しているわけではないのです。

 イエス様は、そんな弟子たちに対して「私の言うことが理解できない者は弟子をクビにします。もっと優秀な弟子に交代します。」とは言われません。イエス様は弟子たちとともにエルサレムまで行き、十字架に架かって死なれ、三日後に復活し、弟子たちの前で召天されました。弟子たちはそのことすべてを目の前にして、イエス様のことを宣教する活動を始めました。目の前で見たことは信じることは難しくありません。弟子たちはすべてのことをイエス様と共に生きてきた中で宣教に踏み出しました。私たちはイエス様と同じ時代に生きているわけではありません。イエス様の死と復活を直接見ることはできません。「見ないで信じる者は幸いである」というイエス様の言葉はありますが、私たちも弟子たちと同じようにできるでしょうか。イエス様はご自分で選んだ弟子たちを、生涯見捨てることなく一緒に進まれました。それは私たちに対しても同じです。イエス様はいつも私たちと共に道を進まれます。イエス様が自分の隣にいつもいてくださるということを信じることによって、直接イエス様を見ることができなくても、私たちはイエス様の死と復活を理解できるようになるのだと思います。

 モーセとエリヤが去った後、雲の中から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という声が聞こえました。これと似たような場面が聖書にあります。イエス様が洗礼を受けた場面、3章22節に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に敵う者」という声が天から聞こえます。イエス様は、洗礼を受けられた後ガリラヤでの宣教を始められました。いわば宣教の出発点です。今日の聖書の箇所以降イエス様はエルサレムに向かい、そこで十字架の死と復活を遂げられます。この天からの声は、十字架への出発点と言えると思います。

 今週水曜日は灰の水曜日です。イエス様の十字架の死と復活を覚える四旬節が始まります。私たちの隣にはいつもイエス様がいらっしゃる、ということを信じて、これからも神様の言葉を聞いていきたいと思います。