2022年2月20日 説教 松岡俊一郎牧師 (代読)

赦しと愛

創世記45章3節~11節、15節
ルカによる福音書6章27節~38節

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イエス様の教えは、わたしたちにとっていつもハードルが高いのですが、今日の福音書の日課はことのほか高いように思います。「敵を愛しなさい。」「憎む者に親切にしなさい。」「悪口を言うものに祝福を祈りなさい。」「侮辱する者のために祈りなさい」「頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」「求める者には、誰にでも与えなさい。」これらの言葉の前では、ウムーっとうならざるをえません。とても守ることが出来そうにないからです。
イエス様が語られている「あなたがた」はいずれも被害者です。憎まれる、悪口を言われる、侮辱される、頬を打たれる、上着を奪い取られる、持ち物を奪い取られる。こんなことが起こったら、抗議し、仕返しをしても誰も文句を言う人はいません。もちろん度が過ぎた仕返しは論外ですが、加害者に対して抗議したり、仕返しをすることは正当な抵抗だからです。しかし、わたしたちは大抵の場合は我慢をします。この我慢をすることはどうでしょう。それを泣き寝入りととらえるか、無抵抗ととらえるかは大きな差があります。公民権運動で有名なM. L. キング牧師は、無抵抗を貫くことで相手の良心に訴えかける無抵抗運動を民衆に勧めました。その無抵抗は「無抵抗という抵抗」でもありました。
しかし、イエス様は、仕返しをするのでもなく、我慢をするのでもなく、その人のために親切にすること、祈ること、差し出すことを勧めています。これは仕返しでもなく、無抵抗でもない、わたしたちの思いや考えを越えた、大きな飛躍です。これを理解するためには、わたしたちの考えの延長上や深めるだけで出来ることではなく、ジャンプしなければなりません。神様の愛へのジャンプです。人間の地平では考えられないからです。このジャンプの前には神の愛の「ゆるし」があります。ゆるしがなければジャンプはできないのです。

このジャンプをした人を旧約聖書の日課は紹介しています。ヤコブの子供であり、後にエジプトの宮廷の責任者になり、ヤコブ一族を救ったヨセフです。ヤコブには12人の息子がいましたが、ヤコブはことのほかヨセフを可愛がっていました。このことは兄たちの激しい嫉妬を招きます。兄たちが羊の放牧に出かけて行った時、兄たちは後からやって来たヨセフを穴に落としてしまうのです。ヨセフはミディアン人のキャラバン隊に救われますが、エジプトに連れて行かれてしまいます。ヨセフは奴隷にされますが、あることで濡れ衣を着せられ監獄に捕えられます。捕えられている間、ヨセフの夢解きの能力が認められ、やがてファラオの夢を解き、寵愛され、宮廷の責任者にまで起用されるのです。その頃パレスチナに大飢饉が訪れます。エジプトはヨセフの夢解きのおかげで飢饉の前の豊作の時期に大量の食糧を備蓄しており、難を逃れます。そこにヨセフを捨てた当事者である兄たちが救いを求めてやってくるのです。兄たちはヨセフがそのように偉くなっていることなど夢にも思いませんでしたが、ヨセフはそれが兄たちであることがすぐにわかりました。しかしすぐには身分を明かさず、仲の良かった弟のべニヤミンを連れてくるように送り返すのです。兄たちは父ヤコブを説得してベニヤミンを連れてエジプトに帰ってきます。そこでまたひと騒動あるのですが、今日の日課でヨセフはついに自分の身を明かし、「命を救うため、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。…あなたたちを生きながらえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」と言って、兄たちをゆるすのです。このゆるしは、ヨセフのゆるしではなく、神様がヨセフに働かれた愛によるゆるしです。自分の命まで脅かした人を、それがたとえ肉親であったとしてもゆるすことは容易なことではありません。しかし、ヨセフは自分に起きた出来事を、神様の出来事として受け止め、そこでは神様の愛が働いているとしたのです。ヨセフは兄たちをゆるしました。このゆるしがあって初めて加害者と被害者という関係が解消され、敵意が溶かされ、対等になるのです。ヨセフもこのゆるしがあって初めて兄弟に戻ることができたのです。

ヨハネ福音書の15章15節で、イエス様は「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。その前では「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われています。イエス様はこの愛のゆえに、十字架上で自分の命を捨て、わたしたちの罪をゆるしてくださったのです。

わたしたちはいろんな辛いことがあると、あたかも被害者であるかのように悩み、悲しみ、苦しみます。そして時には、あたかもそれが、神様が加害者であるかのように不満を言い、嘆きます。しかし、神様とわたしたちの間では、わたしたちは被害者ではありません。愛を与え続けてくださる神様に見向きもしないで、神様が望まれないあゆみと生活をし続けています。神様を悲しませ続けているのです。

しかし、わたしたちの前には大きなゆるしがあります。神様は独り子イエス・キリストを十字架にかけるほどにわたしたちを愛し、ゆるしてくださったのです。この大きなゆるしがあるからこそ、この大きなゆるしの前でのみ、敵を愛し、憎む者に親切にすることができ、悪口を言う者に祝福を祈ることができ、侮辱する者のために祈り、頬を打つ者にもう一方の頬を向けることができ、上着を奪い取る者、求める者には、誰にでも与えることができるのです。これらはゆるしと愛のなせるわざなのです。

今日の日課の最後には、「あなた方の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深いものとなりなさい」と言われています。これは命令ではなく、わたしたちへの招きの言葉です。わたしたちは感情に支配されることが多くあります。被害を受け、自分の不利になるような目にあい、悪口や陰口を聞くと感情的になり、腹を立てます。感情に任せると、その怒りはどこまでもエスカレートし、なかなか消えることがありません。そして、その感情によってかえって自分自身が、心乱され、不安定になり、自己嫌悪に陥ったりします。感情に支配されるとよいことはないのです。もちろんそれを無理やり押し殺してしまうと心理的にまた別の問題が起こってしまいますが、それらの怒りやいら立ちの感情を、一度神さまに委ねて、イエス様と一緒に十字架につけてしまうことによって、わたしたちには今度はイエス様から愛と平安をいただくことができるのです。