2022年2月13日 説教 松岡俊一郎牧師

富ではなく神への信頼

ルカによる福音書 6: 17 – 26

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以前牧会していた教会の時、私はホテルの結婚式を担当していました。今はホテルでの結婚式もだいぶすたれて来たようですが、当時はホテルの結婚式はとても人気があって、土曜や祝日には一日に五組ぐらい司式することがありました。あまりの多さで新郎新婦の名前を覚えるのがやっとで、機械的になっている自分がとても嫌でした。しだいに結婚式の司式に消極的な気持ちになりました。それは心が込められないというだけでなく、新郎新婦は神様の言葉を求めていないと感じたからです。すべてがそうだとは言えないかもしれませんが、ホテルの結婚式の多くは新郎新婦にとってファッションやイベントであり、ホテルにとってもそれは商品でした。そして新郎新婦は幸せいっぱいで聖書の言葉などどうでもよかった、必要としていなかったのです。半面、お葬式はそれとは真逆です。死に直面したご遺族、人々が悲しみの中で、慰めと希望を必要としている時だからです。おのずと牧師はそこにどれほど真剣にかかわることが出来るか試されるときでもあり、神様の言葉と救いが必要とされる時です。このように人は神様の言葉を必要とするときとそうでない時があるのです。しかし人にとってはそうであっても、神様にとっては、人は神の言葉を必要とし信頼すべき存在なのです。

今日の福音書から始まる個所は、マタイによる福音書にも同じような記事があります。マタイ福音書は「山上の説教」と呼ばれ、ルカ福音書は「平地の説教」と呼ばれます。ルカによる福音書は、イエス様が山から下りて平らな所で説教されているからです。マタイによる福音書の山上の説教は、いわば高みに立って広く世界に向かって神様の教えを、理想的な姿として宣言されるという意味合いがあります。一方、ルカの平地での説教はそれとは対照的に、平地は現実世界を、人の日常を表わしています。人々が厳しい競争社会の中で苦闘している現実、単純に勝ち組、負け組と区別できないような不安定な社会の中で人は戦々恐々としています。また大きな災害に遭い、あるいは今のコロナ禍にあって住まいを失い、仕事を失い、人間関係を失って厳しい生活の中で苦しんでいる姿、孤独で将来の希望を見出せず不安の中でうちふるえている姿、欲望の中で時には騙し合い、攻撃し合う世界です。ルカがこのような現実を直視していることは、「今飢え渇いている人は、幸いである。」「今泣いている人は、幸いである」と「今」が強調されていることからもわかります。それだけでなく、日課の前半では、おびただしい民衆がイエス様の教えを聞くために、病気を癒していただくために、ユダヤ全土とエルサレムから、あるいは地中海沿岸の地方から、なんとか癒していただこうと押し寄せていたのです。当時の人々はただでもローマの支配下の中にあり、二重の抑圧の中にありました。エルサレムと地方の格差や差別もあったでしょう。十分な医療のない当時の病気は死に直結するものでした。私たちが思い描く以上に、神の救いを求める気持ちが強かったのだと思います。イエス様はそのような人々と同じところに立たれるのです。

そこで弟子たちに向かって言われました。「貧しい人々は幸いである。」 一方24節では、「富んでいるあなたがたは不幸である」とも言っておられます。ここで注意しなければならないことは、イエス様が貧しい人々と富んでいる人々と言われるとき、弟子たちあるいは民衆を二種類に分けておられるのではないということです。同じ弟子たちに「あなたがた」と呼び掛けておられるからです。人は貧しい時もあれば、豊かな時もあります。満たされている時もあれば、絶えず求めている時もあります。それは後で申し上げますが、経済的なことだけでなく、神様との関係を考えていると言えます。

イエス様が「貧しい人々は幸いである。」と言われたからと言って、一般的な意味では、貧しさが幸いなわけはありません。貧しさゆえに希望を見出せず不安の中に押しとどめられ、味わわなければ苦しみはたくさんあるのです。そこで人は豊かさを求めます。少しでも豊かな暮らし、おいしいものを食べ、きれいで十分な住まいを求め、ゆとりのある生活を求めます。そのために必要なものは経済力です。お金と財産、これが私たちの目標となるのです。しかしお金と財産が中心となる時には、人の心は神様から離れてしまいます。人は神と富とに兼ね仕えることは出来ないからです。貧しい人はその貧しさゆえに金や財産に頼ることができません。神様に頼ることしかできないのです。だからこそ貧しい人は幸いであり、神の国は彼らのものなのです。人が幸せなことは、いつなくなるかわからない金銀財産に頼ることではなく、決してなくなることない神様に頼ることであり、神の国に入れられることだからです。神様に信頼することが重要なことですので、聖書が豊かな人をすべて不幸だと断じているわけではありません。その豊かさが神様の恵みのゆえに与えられていることを自覚し、だからこそそれを分かち合うことに心を砕いているならば、その人は神様に堅く結ばれているのですから不幸であるはずはなく、幸いなのです。

「今飢え渇いている人、今泣いている人」も同様です。今の現実の中では与えられず、満たされないがゆえに涙するしかないのです。しかし彼らには人の世界では与えられず満たされなくても、神様が与え、満たしてくださるのです。さらに「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる時」、これは弟子たちをはじめとするキリストに連なる者たちが遭遇する迫害を想定していると思いますが、彼らにはこの世界では報いが与えられなくても、「その日」つまり終末の主の再臨の時に、復活の主に迎えられ、復活の主と相まみえ、喜び踊ることが出来るのです。

イエス様は「富み、満腹し、笑い、ほめられている人々」を不幸だと言われていますが、何もその人を断罪しておられるのではありません。「不幸だ」と訳されている言葉は感嘆語ですから、むしろ「ああ、なんて不幸なのだ」と憐れみの叫びを発しておられるのです。イエス様はすべての人が神の国に入ることを望んでおられます。貧しさのゆえに神様に頼り、神の国に入ることが出来る人がいる一方で、神の国に入ることが難しい人もいます。満たされている人々です。それは神様に頼る必要がないと錯覚しているからです。ルカによる福音書18章18節以下にある、神の国を求めながらもその財産を捨ててイエス様に従うことのできなかった金持ちの議員の話があります。彼は目の前の金銀財産が自分を豊かにしてくれるものとして離れることができませんでした。私たちは金銀財産が私たちを豊かにしてくれるとは思っていません。そこで与えられる幸せと平安は一時的、表面的なものと分かっています。しかしそれでも私たちはそこから離れることが出来ないのです。しかし本当に人を豊かにするのは神様しかおられません。彼は従うことはできませんでしたが、イエス様の憐れみの眼差しは、去っていく彼の後姿を追い、憐れみをもって招き続けていました。その憐みのまなざしは私たちにも向けられ招かれています。