イエス様の選びに応える
イザヤ書 6: 1 – 8
ルカによる福音書 5: 1 – 11
今日わたしたちは礼拝を教会総会の開会礼拝として守っています。例年であれば、様々な活動の報告がなされ、宣教についての積極的な議論がされるのですが、このコロナ禍にあっては、なにせ様々な集会や活動が縮小、中止され、礼拝以外の活動がされていませんので報告も限られています。そして総会の時間も短く切り上げることを考えていますので、テンポよく進めていきたいと思います。しかし、不自由な活動だけでなく自由に礼拝に足を運ぶことが出来な状態でも、皆様の心が神様にしっかりと向いており、教会を支えてくださっていることを心から感謝いたします。今日はこの神様に向き合うことの大切さを福音書から学びたいと思います。
今日の福音書の最初の場面は、ガリラヤ湖畔におられたイエス様のもとに、大勢の群衆が押し寄せてきたことから始まります。群衆は、すでにあちこちで神の言葉を伝え、癒しの奇跡を起こされてきたイエス様の評判を聞きつけて来たのです。そこでイエス様は、そこにいた二艘の漁師の舟の一艘に乗り、少しだけ岸から漕ぎ出すように願われます。その方が群衆の中でもみくちゃになりながら話をするより、話しやすかったからです。その漁師はシモンでした。当然そこには兄弟アンデレもいました。さらにもう一艘にはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネもいました。しかしルカによる福音書の強調点は、そこにはありませんでした。その後です。
イエス様はシモンに「沖へ漕ぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と言われます。シモンが言うように、彼らが網を洗っていたのは、夜通し漁をして、その片付けをしていたのです。そして、彼らは夜通し漁をしても何も取れなかったのです。ですからシモンがイエス様の申し出を断っても、ちっとも不思議ではありません。漁師の自分たちがどんなに苦労しても取れなかった魚が、陽が高く上った日中に取れるとは思えなかったからです。しかし、シモンは不満こそあったかもしれませんが、「しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と言って網をおろすのです。この何気ない行動によって大逆転が起きます。おびただしい数の魚がかかり、網が破れそうになって、もう一艘の舟を呼ぶほどだったのです。
この出来事の中では、シモンの「お言葉ですから」という言葉が重要です。この言葉には、自分の経験や考えをわきに置いて、イエス様の言葉に従ったからです。人は自分の考えに固執します。いったんこうだと決めると、それを変えることはなかなかできません。その意志の強さ、頑固さは、個人差はあっても、人は自分の経験や気持ちにこだわるのです。自分の考えをいったん置いて、人の言葉に従うのはたやすいことではありません。まして漁はシモン・ペトロたちにとって生業です。これまで自分たちは毎日その生活を続けてきたし、これからもその生活を続けるのです。そこには人の意見など付け入るスキがなかったかもしれません。しかしシモン・ペトロは「お言葉ですから」といってイエス様の言葉に従うのです。このペトロの行動は、この時彼にとっては思いつめたものではなく軽い気持ちだったと思います。それは後で、彼が「わたしは罪深い者なのです」と告白していることからもわかります。それはイエス様の力を信じて従ったのではなかったから懺悔しているのです。しかしこの何気なく従った一つの出来事が、ペトロの人生を大きく変えるのです。
イエス様はシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われ、彼らは舟を陸に上げ、すべてを捨てて従います。「人間をとる漁師」とは少し詩的な言い方です。本来は「人を捕らえて生かす者」と訳される言葉です。これがこれからのシモンに託された使命であり、人生です。舟を陸に上げる、漁具を捨てる、それはこれまで彼らが生業としていたものを捨てて、全く新しい人生を歩みだしたことを示します。
ルカ福音書は弟子の召命を記録することによって、イエス様との出会いは、人の人生にこのような変化をもたらすことを伝えたかったのではないでしょうか。ここには弟子たちの気持ちは書かれていません。迷いはなかったか?不安はなかったか?きっとあったでしょう。変化に不安はつきものです。旧約聖書の日課はイザヤの召命の記事です。イザヤは神様の使いであるセラフィムに出会います。イザヤは自分のことを「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」と叫びます。そうするとセラフィムのひとりが祭壇から火挟でとった炭火をイザヤの口につけ「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」と言います。そして神様が「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わっていくだろうか。」と言われると、イザヤは「わたしがここにおります。私を遣わしてください。」というのです。
しかし弟子たちは、イエス様の言葉に従ったのです。もちろん弟子という意味では、まだ何もありません。他の人と同じように一般的なユダヤ教の教育は受けて来たでしょう。しかしのちに「無学な人」と呼ばれるように特別な教育は受けていませんでした。イエス様と数年過ごし後でも、彼らは弟子からぬ態度を度々見せてくれます。イエス様の言葉を理解してない、自分たちの中でだれが偉いか論争する、イエス様の受難予告をたしなめて逆に叱られる、そしてしまいにはイエス様の十字架の前で弟子であることを否定して散り散りに逃げ惑うのです。
イエス様も弟子たちを招くにあたり、彼らの中にそれにふさわしいものが備わっていたから招かれたのではありません。学問もない、信仰さえ不確か、これまで培ってきたものは不必要です。これは使徒パウロも同じです。彼は「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」と言っています。しかしパウロはキリストのゆえにそれまでの知識や考え、経歴をむしろ損失と思うほどに捨ててしまうのです。イエス様に従う時に、人が持っている力や能力、経歴など意味を持ちません。むしろそれらは邪魔になることがあります。そこに頼ろうとするからです。必要なことはみ言葉への信仰だけです。それもそれらも最初から備わっていることが条件ではないのです。大事なのはイエス様の召しとそれに応える信仰だけです。イエス様が漁師たちを弟子とされたことは私たちにとっても慰めです。それは私たちにも、ありのままの私でいいと言ってくださっているからです。私たちはもはや人間的にも信仰的にも虚勢を張る必要がないのです。自分が足りない人間だ、ダメな人間だと卑下する必要もないのです。ただ招きに応えるだけです。イエス様は「沖に漕ぎ出しなさい」と言われます。私たちはその言葉に信頼し、その言葉に従いたいと思います。