2022年1月9日 説教 松岡俊一郎牧師

天からの声

ルカによる福音書 3: 15 – 17, 21 – 22

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今日の福音書は「民衆はメシアを待ち望んでいた」という言葉で始まっています。ユダヤは絶えず周辺の列強の国々に脅かされ、時には占領されていました。新約聖書の時代もローマ帝国の支配下にありました。そのような中でメシア(救い主)を待ち望む機運が高まっていました。それは政治的にはローマからの独立であり、宗教的には罪から救われ名実ともに神の民とされることでした。つまりメシアを待望するという背景には、抑圧されている現実と実感が民衆の中にあったのです。

それでは現代の私たちはどうでしょう。メシアを待ち望む気持ちはあるでしょうか。世界には激しい弾圧と抑圧を受けている人々、自由を制限されている人々がいます。飢餓と貧困の中にいる人もいます。コロナの蔓延が収まりません。そのような意味では、解放を求め、自由を求め、豊かさを求めているでしょう。しかし日本に暮らしている私たちはどうでしょうか。飢餓を連想するような空腹を感じたことがあるでしょうか。自由を求めて叫ぶようなことはあるでしょうか。確かに忙しさとストレスから解放されたい、のんびりしたいという気持ち、コロナが次々に型を変え蔓延して、生活が制限されるストレスはあるかもしれません。しかし、救い主を待ち望むほどの苦難の状態にはないのかもしれません。その意味で私たちは本当に恵まれ幸せだと思います。

しかし私たちの暮らしに問題がないかというとそうではありません。確かに食べ物はある、そこそこの暮らしは出来る。そうは言っても、明日の暮らしに不安を覚えることはたくさんあるのです。健康の問題、将来起こるかもしれない介護は誰がしてくれるのか。孤独の中で不安を抱えておられる方は少なくないと思います。また現実に病気をされている方や肉親の看病、介護をされている方もおられると思います。仕事が忙しく心も体もぎりぎりの中にある方、仕事がなく将来に不安を抱えておられる方、寂しさや漠然とした不安を感じながらいらっしゃると思います。そして何にもまして心のよりどころがないと感じているのではないでしょうか。生活の華やかさ、賑やかさ、明るさの中で、暗くさびしく不安な姿のわたしたちがあり、それに目をそむける、覆い隠すような生活をしているのではないでしょうか。実は私たちも救われたいのです。「メシア待望」という単語にはならなくても、神さまの救いを必要としているのです。

今日は主の洗礼日です。イエス様が伝道生活を始められるころ、すでに洗礼者ヨハネが活動を始めていました。ご存知のように、この洗礼者ヨハネはイエス様がマリアのおなかの中にいた時に訪ねて行ったザカリヤとエリザベトの子どもです。つまりイエス様とヨハネは六カ月違いの親戚にあたります。ヨハネはヨルダン川のほとりにいて、人々に悔い改めるように教え、洗礼を授けていました。聖書はそれを預言者イザヤの「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。まがった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』という預言の成就として記しています。その風貌は預言者らしく、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていた」とマタイ福音書は記しています。そんなヨハネのところにイエス様は洗礼を受けに来られるのです。ルカによる福音書は触れていませんが、マタイ福音書などでは、イエス様が直接ヨハネのところに洗礼を受けに来られた時、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言っています。とにかくイエス様はヨハネから洗礼を受けられます。

今日の福音書では「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と言っています。洗礼の時に、聖霊が目に見える姿で現れるのです。
私は、イエス様が洗礼を受けられた時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」とわざわざ書いているのは、目に見える姿では見えないことが起こったからわざわざそう書いたのだと思っています。つまり、洗礼の際には一見すると何も起きないけど、確かに聖霊が降だるのだということを教えるために、目に見える姿で起こったように書いたのだと思います。洗礼は聖霊降臨の出来事だからです。もちろん皆さんの多くはイエス様の洗礼の際には聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来たと信じておられると思います。その聖書の受け止め方は正しいと思います。ただ素直に信じられない方は、私のように理解してみてもいいかなと思います。いずれにしても大事なことは、洗礼の際には聖霊降臨が起こるということです。

その上で、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのです。父なる神から、イエス様にかけられた声です。ある人々は人間イエスがここで神の子イエスに変えられたと考えましたが、そのように考える必要はありません。イエス様は生まれる前から神様と一つであるからです。マタイによる福音書は「これはわたしの愛する子、私の心に適う者」と言っています。マルコやルカは「あなたは」と言っていますので、天の声がイエス様に向かって語られ、マタイでは「これは」と言っていますので、周りにいる人々に語られたと考えることが出来ます。いずれにしても、イエス様も洗礼の時に聖霊が下っているのです。

聖霊の働きは、私たちの感覚で感じられるものではありません。知覚の世界と信仰の世界は違うのです。もちろん私は聖霊を体験的に感じた経験をお持ちの方を否定しません。それはそれで素晴らしい尊い体験だと思っています。しかし、聖霊は信仰に働きます。聖餐式も同様です。洗礼も聖餐も、普通の感覚では、水の冷たさと食パンの味わい、ぶどうジュースの甘さしか感じられません。しかし信仰はそこにキリストの臨在と聖霊の働きがあると受け止めるのです。そしてみ言葉と水、パンとぶどうジュースはその信仰による理解を助けるのです。この洗礼の時に働く聖霊の働きによって人は新しい人として生まれ変わり、聖餐式によって日々キリストの十字架による赦しを体験し、新しい命をいただくのです。

そしてそこには祈りがあります。「天が開けて、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」のは、イエス様が「洗礼を受けて祈っておられた時」でした。聖霊は祈りのあるところでより確かなものとして働くのです。イエス様の生涯の重要な場面では、必ず祈っておられます。癒しの奇跡を行なわれた時、ペトロの信仰告白の時、イエス様の姿が変わった変容の時、主の祈りを教えられた時、ペトロの裏切りの予告をされた時、ゲッセマネの園での祈り、十字架上での祈りなどです。

聖霊の働きは、目に見えるものを信じ、確認できるものだけを存在する、とする今の私たちの感覚から言うと実に頼りないものです。現代的な方法では何一つ確認できないからです。しかし、それでも聖霊の働きは洗礼の水と聖餐式のパンとぶどうジュースと共にあり、信仰と祈りによってそれはより確かなものとして受け止められるのです。目に見えるものは、目に見える時だけ力を持ちますが、目に見えないものは永遠に力を持つのです。その聖霊を受けたイエス様に天の声が降り注ぎました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。このイエス様に従う私たちにも聖霊は降り注いでいます。そして私たちがそれを受け止めるだけではなく、キリストの救いを必要としている人々のために、そして聖霊がその人々の受けにも注がれていることを伝えるためにも伝道の業に励みたいと思います。