2021年12月19日 説教 松岡俊一郎牧師

信仰への祝福

ルカによる福音書 1: 39 – 55

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昨年からの新型コロナウィルスの影響で、私たちの教会では長く讃美歌を歌うことが出来ていませんので讃美歌への渇望に似た気持ちがあります。賛美をするということは、私たち日本人にとってそう普通のことではないように思います。賛美をするという行為は、私たちの日常生活の中にはありません。それに近いものとして、万歳と歓声を上げることがありますが、それでもしょっちゅうあることではありません。ごくたまに拍手をして誉め祝うことはありますが、「あがめる」という意味で賛美をするということは、ないのではないでしょうか。

今日の福音書の日課の前半は「マリアのエリザベト訪問」、後半は「マリアの賛歌、マグニフィカート」と呼ばれるところです。マリアの賛歌はマリアを誉め讃える「アベ・マリア」と間違われることがありますが、ここは天使によって聖霊による妊娠を告げられたマリアが、同じように聖霊によって妊娠したエリザベトを訪問し、その祝福を受け、神様を賛美し、歌ったところです。

マリアは、エリザベトの祝福を受け、「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」と歌いました。しかし、皆さんよく考えてみてください。マリアは当時まだ15,6歳だった言われています。それも、婚約はしていたとしても、まだ結婚をしていたわけではありません。今のように、男女の関係が自由な時代ではありません。マタイによる福音書では、婚約者であるヨセフはマリアの妊娠の事実を知って「ひそかに離縁しようとした」のです。そうしなければ、律法に従ってマリアが石打の刑になってしまうからです。それほど未婚の女性が妊娠するということは、大問題だったのです。マリアに妊娠を告げた時、天使は、「おめでとう。恵まれた方」と声をかけているのですが、とんでもないことを天使は伝えたのです。そのように考えると受胎告知から少し時間がたっていたとはいえ、同じように聖霊の力によって妊娠した先輩がいたとはいえ、そのエリザベトが「あなたは女の中で祝福された方です」と祝福したとはいえ、マリアが先ほどのように賛美を歌うことは、大変な驚きといわざるを得ません。マリアは、どうしてこのように賛美することが出来たのでしょうか。

マリアの賛歌の冒頭をもう一度見ましょう。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。」マリアはこの時、自分のことを「身分の低い、はしため」と呼んでいます。確かに、マリアは田舎の名もない娘でしかありませんでした。身分の低い者でした。しかし身分の低い人は多くいたはずです。その中で自分を「主のはしため」と言い切る人は、そう多くはいなかったはずです。自分の弱さや小ささを認め、受け入れることは、誰にでも出来ることではないからです。表面的に謙遜な態度をとることはあっても、自信をなくし、自分を卑下して小さく考える時はあっても、自分の存在を深いところで小さな者とすることは誰にでも出来ることではありません。もともと人は、自分自身は特別な存在だと考えていますし、特別な存在であろうとしていますから、他よりも小さい者とすることは出来ません。さらに現代の私たちは、平等とか人権意識を学んでいますから、他者に対して自分を低い者と考えることがありません。ある関係において、例えば仕事上の上司と部下とか、先生と生徒の関係とか、お客さんに対してとかのごく限られた関係においては、上下は存在しますが、人間存在としての上下はないのです。その意味で私たちは、マリアが言うような「主のはしため」という自己認識は、そう簡単に到達することが出来ないように思うのです。しかしマリアは、神様を絶対的に大きな存在とし、自分自身を小さい者としています。神様と自分の関係をこのように捉えるときには、人との関係においても自分と他者を上下の関係でとらえることはないのです。そう考えるならば、辛い状況の中にあったマリアは、このようなところから賛美することが出来たと思うのです。賛美は、相手をほめたたえることです。そこでは自分が問われ、相手との関係が問われる。マリアの賛歌はそれを教えています。

さて、マリアの賛歌の内容を見てみましょう。47,48節では「わたし」が主語になっていますが、49節以下では「力ある方」が主語になり、「わたし」がなくなります。これが賛美です。そこでは、力ある方のみ名は尊く、憐れみは永遠であり、主を恐れるすべての人に及びます。その力によって弱い者が強くされ、強い者が弱くされ、飢えた者が良いもので満たされ、富める者は空腹のまま追われます。これは、神様が来られるときに逆転が起こるということです。

旧約聖書にハンナの祈りと呼ばれるものがあります。これはマリアの賛歌の原型になったともいわれる「ハンナの賛歌」です。エルカナという人に二人の妻がいました。一人には二人の子どもがおり、子どもが与えられなかったハンナは、毎日惨めな生活を送っていました。当時は、子どもが与えられることこそが神様が祝福されていると考えられていたからです。しかし、そんなハンナの祈りを神様は受け入れられ、サムエルという子どもが与えられるのです。この賛歌は、その子サムエルを神様に捧げる時に祈った賛美でした。この賛歌の中でも神様が来られ、その力を発揮されるときに、逆転が起こることを伝えています。

マリアの賛歌で歌われているその逆転は、貧しい人と富める人、弱い人と強い人が入れ変わったというような単純な立場の逆転ではありません。立場の逆転であれば、それだけでは席替えでしかなく、その全体の構図は何も変わらないのです。そこでの救いは限定的であり、根本的な救いとか喜びではありません。しかし神様の逆転はちがいます。神様が来られることによって、人ではなしえない、限定されない逆転が起こるのです。もしマリアが神様の救いが自分にだけ向けられたものと考えていたならば、出来事そのものを受け入れられなかったでしょうし、神様を讃美することは出来なかったはずです。

イザヤ書11章1節から10節には、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子どもがそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」とあります。敵対する関係、襲い、襲われるものが、神様の究極の救いが実現したときには、共存するというのです。これが、神様の救いの姿です。神様のもとでは、これが実現するのです。
つまり、マリアの賛歌にみられる逆転の姿は、ただの立場の逆転、席替えではなく、全く新しい世界の誕生を確信し、賛美するのです。

私たちはクリスマスを迎えています。クリスマスは、神が人となられた出来事です。神が人となられる。それは神様が、人の貧しさ、小ささ、弱さ、愚かさを自分のものとされた奇跡です。マリアは、それを実感しました。ひとりの小さな存在でしかない自分に神様が宿られる。それは神様が彼女を受け入れられたことであり、そこに留まらず人類が、世界が受け入れられたことを悟ったのです。このように、マリアの救いは人類の救いとなり、マリアの賛美は個人の賛美から、人類が捧げる賛美となりました。だからこそ、マリアの賛美は、わたしの賛美となり。マリアは歌い、私も歌うのです。
クリスマスの喜びが、天使が告げるように、すべての人の喜びとなりますように。