2021年11月7日 説教 松岡俊一郎牧師

信仰によってあいまみえる

イザヤ書 25: 6 –  9
ヨハネによる福音書 11: 32 – 44

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今日の日曜日は全聖徒主日、召天者を記念する礼拝として守っています。お手元にあるように、大岡山教会の召天会員、また関係のある方々のお名前とそのお働きやお人柄がひとこと添えられています。お一人おひとりに歴史があり、信仰があり、出会いと経験があり、そこでの喜びと悲しみの生の営みがあったはずです。それに思いをはせています。しかし、死は一瞬にしてそれらをあたかもなかったかの如く襲います。預言者イザヤは言います。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。」私たちは、故人のことを忘れることはありませんが、生と死を目の前にして、死に抵抗することが出来ないもどかしさ、時には無力感を感じながら立ちつくしてしまいます。

イエス様が親しくしておられた姉妹マリアとマルタにラザロという兄弟がいました。イエス様はこのラザロをも深く愛しておられました。ある時このラザロが重い病気になりました。姉妹たちは人をやってイエス様に急いで来ていただくようにお願いします。イエス様の力ならばラザロも癒されると信じていたからです。ところが不思議なことにイエス様はすぐに駆けつけることなく、二日間も同じところに滞在され、いっこうに行こうとされません。二日ののち、イエス様は「友が眠っている。おこしに行こう」と言われ、ラザロのところに向かわれます。イエス様はその時点ですでにラザロは死んでおり、「おこしに行く」とは復活させるおつもりだったのです。弟子たちはそんなことは分かりません。「眠っているのであれば、助かるでしょう」と答えます。これに対して、イエス様は「ラザロは死んだのだ」と言われます。この時の弟子たちの動揺はいかばかりだったでしょうか。

イエス様がベタニヤに着かれた時には、すでに最初の連絡から四日が経っており、ラザロは墓に葬られていました。マルタはイエス様を迎えに出て、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と悔しがりました。そしてそれでも主に対する信仰にゆるぎないことを告白します。するとイエス様は「あなたの兄弟は復活する」と言われました。マルタも「終わりの日の復活の時に復活すること存じております」と答えました。すると、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない」と言われ、これを信じるかとお確かめになったのです。

マルタは急いで家に帰り、マリアにイエス様が来られたことを知らせます。なぜかイエス様はまだ村の中に入ろうとはされません。そこにマリアが走ってやってきました。そしてマルタと同じように「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と涙を流し残念がりました。イエス様はこのマリアの嘆き、人々の悲しみの様子に心動かされて、ラザロを葬った場所に案内するように求められます。洞穴状の墓は大きな石で塞がれていました。イエス様はそれを取り除くように命じられます。そこでマルタは「すでに四日も経っていますから、もう臭います」というと、「もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか」と言い、祈り、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました。するとラザロは当時死んだ者がそうされていたように、手や足に布を巻かれたままで出てきたのです。墓を塞ぐ大きな石は、生と死を分ける石です。イエス様はこの塞がれた扉を開けられるのです。人には開けることが出来ない生と死の扉、これを主は開けられるのです。このラザロの復活の話は、ユダヤ人の間で大騒動になり、指導者たちによるイエス様を殺す計画が具体的に進行し始めるのです。

さて、この中でイエス様は2回「憤りを覚えた」とされています。新共同訳聖書では「心に憤りを覚えて」とあり、新改訳聖書では「霊に憤り」としています。それではイエス様は何に憤られたのでしょうか。預言者が預言する時の霊的集中の状態を示す言葉と考えられますし、ある注解書では死に対しての憤りと考えています。死は人からすべてを奪い取ります。それは本人だけからだけでなく、家族や親しい者からも奪い、その人の存在と人生をあたかもなかったかのようにしてしまい、人を深い悲しみと喪失感に陥れます。このような死に対してイエス様は憤られたのです。そして死と真正面から対決されます。ラザロを復活させるのです。死は人にとって絶対的なものです。しかしイエス様はこの絶対的な死に勝利されるのです。

死とそれに伴う出来事は、私たちからすべての希望と可能性を奪う最強のものです。だからこそ死は私たちにとってタブーであり、死についての話題を避けてしまうのです。しかしイエス様は復活という仕方で死と対決し死に勝利されるのです。ラザロの復活はことばで言うならば「小文字の復活」です。復活した彼もやがてはまたみんなと同じように死んだからです。しかしイエス様の復活は「大文字の復活」です。イエス様の復活は永遠の死からの勝利だからです。そしてそのような復活の力をもったお方が「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」といわれるのです。私たちにとって生と死の狭間が全てです。だからこそ一分一秒でも長く生きたい、生かしたいと願っています。しかし、神様にとって人の存在は死に制限された一時ではないのです。生と死を超えて生きる存在である命を得させるために神様は私たちのもとにイエス様を送られたのです。その結果、信仰によって私たちは死を絶対的なものとは考えず、死を超えて神様のもとで生きることが出来ると信じるのです。イエス様は復活したラザロから包帯を解くように命じられます。それは死によってもたらされた様々な縛りと限界をイエス様ご自身が解き放って下さったことをあらわしています。
召天者記念の礼拝を守る私たちは、修道院で交わされていた挨拶の言葉メメント・モリ(死を覚えよ)との言葉通り、死を見つめる時にいます。しかし、死はキリストの復活によって永遠の命の門、入口となりました。悲しみと喪失感、無力感から立ち直ることは本当に難しいのですが、しかしだからこそ私たちはキリストの完全勝利である復活を信じたいのです。この復活信仰から、絶対的な勇気と喜びがわき起こってくるのです。そしてこの信仰は亡くなられた方々と私たちを隔てる壁を取り壊し、相まみえることが出来るのです。